「かけ算」の「形式的な理解」ってなんだろう。

 しつこいですが、マイ・ブームの 「5×3≠3×5問題」、
「5×3≠3×5」問題について思ったこと - よたよたあひる’S 「はてな」日記

さらが 5まい あります。
1さらに りんごが 3こずつ  のって います。
りんごは ぜんぶで 何こ あるでしょう。

「5×3≠3×5問題」論争!我が家の場合(笑) - よたよたあひる’S 「はてな」日記

連れ合い:「3の5倍」と「5倍にした3」と、どちらの順序で書いても掛け算の意味は変わらない(でも「3個セットが5個」と「5個セットが3個」というのは意味が違う。文章をそのまま素直に読めば「一皿に3個ずつ」で「3個セットが5個」と書いてあるのは明らか)。」
:「問題文を読んでそのまま図をイメージする(自分にとってわかりやすい整理の方法で図にする)と、出てきた数字順に絵が完成する。その絵をもとに立式するから5×3になるのは(自分にとって)自然。」

という家庭内論争を経て、
(※↑類は友を呼ぶ、よたよたあひるの「連れ合い」のオツムはやっぱりよたよたしてたよwww - 消毒しましょ!という消毒をいただき、さらに話し合った結果、もともとの家庭内論争のエントリに書いた台詞を若干修正してあります。)

:「そうか、『1さらに』『3こずつ』を一つのカタマリとして認識せよ、という意味が問題文に書かれているからそれを読み取れ、という問題なんだ…私には文章題の読解に難あり、ということだ。『ずつ』は一応認識されているのだけど、それを使って問題を解くということにならない。棚上げしてしまうんだよね。でもさ、『ずつ』をキーワードとして読み取ることができたらそれでいいのかな。掛け算そのものの理解、ということからいったら何か違うと思うんだけど。」
連れ合い:「あひるの読解は迂遠だし、もっと近道で立式できるだけの情報が問題文に書いてあるのだけれど了解可能な理路ではある。問題文そのものの条件には、あひるが認識する道筋は書かれていない。けれども、あひるの読解を排除するだけの理由も書かれてはいない。近道があっても迂遠な回路を通ってしまうというのは自分には謎だけど、そういう思考回路を持った人がいる、ということだね。」
:「全体からみるとたぶん小数派なんだろうけど、ネットの意見を見ていると同じような人(でもってもっと数学的な人)はそれなりの数いると思う。文章題の文意は把握しているけど、その文意を立式と計算にはじかにつなげていないの。」
連れ合い:「いや多い少ないという問題じゃなくて、そういう迂遠な思考回路をとるひとがいる、というだけでいいんだよ。「教える側」は対応しなくちゃならないってことだから。」

というところまできました。
 こうやって並べると相変わらず会話はあまりかみ合っていません。でも、私のほうは、自分の「文章題の読解」のねじれを認識することができましたし、一応、連れ合いは私が何にこだわっているかを理解してくれたようです。

さて、この先の展開としては、
A.あひる脳による読解の理由の分析
 ・・・あるいは、あひる的認識の問題点
B.あひる脳的子どもは「掛け算」をわかっているか?
C.あひる脳的子どもにはどんな「指導」が必要か?
 ・・・あるいは有効か?
D.そもそも「掛け算の概念」「掛け算の意味」て何?
E.ひっかけ問題は「掛け算の理解」を評価するのに適切な問題か?
F.小学校2年生の掛け算の導入時に順序を徹底する指導はどこまで有効か?

というところですね。

昭和26年の学習指導要領
http://www.nicer.go.jp/guideline/old/s26em/chap4-1.htm
にある、

こどもが,このような誤った解決をするのは,かけ算の意味をひととおり理解しているにしても,その理解が形式的になっていることを示しているといえる。
 問題が,どんな形式でだされようとも また,いくつかの条件がどんな順序で書いてあろうとも,かけ算を式で示すとすれば,
(グループの大きさ)×(グループの個数)=(量全体の大きさ)
であることが,こどもにじゅうぶん理解されておらなければならない。

 では、「かけ算」を式にあらわす意味は順序で示される、ということが書かれています。この文章中の「理解が形式的になっている」というのはどういう意味があるのでしょう。
 同じ学習指導要領(試案)の「評価」の部分に書かれている文章を見ると、

 どんな九々をつかうかという問に対して,3×2=6と答えたものが予想以上に多いことがわかった。これによってこどもは問題に出てくる数を,その数の意味を深く考えもしないで,出てくる順に書き並べ,その間にかけ算記号を書き入れることがわかった。問題に出てくる数を頭の中にいったん収めて,演算の決定に導くように問題の場を組織だてる力が欠けているらしいことがわかった。

 単純に暗唱した九々に、問題文に出てきた数字をあてはめて「掛け算」にしているだけ(答えは偶然あっているだけ)というのと、あひる的立式はちょっと違います。 一応、文章は咀嚼していて、「問題に出てくる数を頭の中にいったん収めて、演算の決定に導くように問題の場を組織だて」はしている。何を求めるのか、その求める数を決定するためには何と何を使えばよいのか、ということを取り出して考えて立式をしています。でも、その文章に沿って立式をする、というところがすっぽぬけているんですよね。私の場合すっぽぬけているのは、「数字を問題文にでてきた順序で処理している」というところに原因がありそうです。文章に処理できない何があると、逆順に書かれている問題でもひっかからないものがあったんですよね。
http://benesse.jp/blog/20071120/p37.html
進研ゼミの保護者の質問コーナーへの回答にでてきた問題なんですが、

リボンを7本作ります。
1本を8cmにすると、リボンは全部で何cmいるでしょう。

私の場合は、この問題だと、
(1)長い1本のリボンが頭の中にボン、と出てくる。
(2)そこから7本の短く切ったリボン(1本が8cm)を作る。
(3)リボンは端から8cm「ずつ」切らないと作れない。
という手順になるので、脳内図と問題はずれないようです。「おお、これはまさに累加だなぁ」と関心してしまいました。

 でも、引用したサイトの質問者のお子さんは、この問題でも逆順に立式をしている。どうも私とは頭の動かし方が違うお子さんのようです。でも、じゃあ、このお子さんが「単純に出てきた数字を掛け算に当てはめているだけか」というとそうとは言い切れない。
(長さのわからない短いリボンが7本)×(1本の長さは8cm)という立式になっている可能性もあります。(1cmの)リボン7本がそれぞれ長さ8倍になる、という解釈は成り立ちますから。

 問題文にある数字の書かれた順番には縛られているけれども、「かけ算」という道具を使って考えるときに、必要な構造化はしている。
 必要な「指導」は「掛け算の意味」の理解であるならば○にして良いのだと思います。でも、「問題文を素直に読むとこういう立式になる」という視点や「問題文にでてきた数字順に処理できない問題はある」ということはわかっていたほうがいい、というだけでなく、わかっていないと困る状況はでてきますよね。
 だから、指導は必要なんですが、その指導は「ずつ」を目印にしなさい、ということとも言い切れない。「ずつ」がでてこない問題は作れるし(PISAの問題はその手の問題がけっこうあります。全国共通学力テストのB問題もそういう志向があると思いますし、テストの解法ということだけで言っても、全国共通学力テストやPISAは公立高校やセンター試験などに反映してくるでしょう)、なによりも実際の生活場面では生の数値だけがボンとでていることはいくらでもあります。

 必要なのは個別の子どもの「読解」や「理解」がどうなっているのか、ということを指導者が「理解」して、その子どもの「読解」「理解」が一般的でない場合には「矯正」するというのではなくて、「その子が気がつけないでいる視点」や「より一般的な読解がどういうものなのか」を「追加」してあげることじゃないかと考えています。
 今の学校の先生にそこまで求めることは酷なことだろうなぁとも思うわけですが。教科書そのものが「矯正」の方向に動いているのじゃないかということも気になります。
↓これなんかはやめてほしい。
http://ameblo.jp/metameta7/entry-10742669809.html
教科書の中に図を描かせる場面が組み込まれていて、その図の描き方が誘導的なんです。これは辛い!