「正しく怖がる」という言葉は好き


 福島第一原発事故放射線放射性物質放射能への対応についての「正しく怖がる」という言葉は評判が悪いらしいけれど、私はかなり気に入っている。「正しく」と「怖がる」の組み合わせが好きだ。どういうところが気に入っているのかと考えてみたのだけど、たぶん、怖いから一生懸命知ろうとする、学んだものを恐る恐る実際の生活に取り入れていく、という感じがするのがいいんだと思う。*1

 あちこちのブログやらブクマやらツィッターなんかを読んでいて、「正しく怖がる」という表現の評判が悪いのは、この言葉の中に、「無知だから過剰に怖がっているだけで、本当は怖くなんかない」とか「怖がる人は間違っている」という意味をこめて、「だから怖がるな」というメッセージを押しつけられていると感じる人がいるということなのかもしれない…と考えるようになった。「安全厨」とか「安全デマ」という言い方もあるし。
 
 でも、「正しく怖がる」は「怖がらない」ことではないし、「本当は安全だから怖がってはいけない」ということでもない。事態を把握するための知識があれば、より正確に何が怖いかがわかるということでしょう。知識が増えれば、オバケのようなわけのわからないものを怖がるのではなくて、実際に「危険」を怖がることができる。ただし、知識が増えると、「知らなかったから怖くなかったこと」が「怖いことだとわかる」ということもあるけどね。
 でも、「正しく怖がる」という言葉を「正確な知識を持って冷静に対処する」という言葉に置き換えるのはまたちょっと違う感じがする。
 「正しい知識を持って冷静に対処する」という言葉だと、頭の中に浮かぶのは、「名探偵コナン」で、事件の推理が完成したときに一瞬のドヤ顔のあと推理ショーの準備を始めるコナン君だったりするので。いやそんなに冷静に行動できるのだったら苦労はないよな、と思ったりする。私には、3月11日以降に、昔の学生時代の知識を掘り出してみたり、付け焼刃で勉強してみたりした知識しかないわけで、日常生活は「冷静に」というのとはほど遠い。「冷静になりたい」とは思っているけど、実際には「冷静にならなくては」と自分に言い聞かせているというか、無理やり「冷静」な自分を演出しているというか、やせ我慢というか、無理しているというか。
 パニックになるのはそれだけで危険なことだから。

 怖いから必死で調べる、いろいろ難しくてわからないけどわかろうとじたばたと努力する。あちこち調べて、実測値がわかったり理屈は少しわかった気がしたりするけど、生煮えだからうまく使えなかったり間違ったり失敗したりする。生煮えなのがわかっているから余計に臆病になることだってある。ビクビクしながら、それでもなんとか生活していくために試行錯誤していくしかないのが今の状態なので、「怖がっている」のは間違いないけど、私の理解や日々の対策が客観的に「正しい」かと問われれば、自分なりに納得しているだけだとしか言いようがない。
 
 3月11日以降、次々に新しい情報がでてくるし、状況は日々変わってきている。
 いろいろなデータや考え方の参考になるものを調べて比べたりして、訂正できるものは訂正しようとしてはいるのだけど、自分の思考パターンはやっぱりある程度固まっているものがあるし、はっきりした自覚がないまま「決めつけ」ていたりすることもきっとあるはず。せめてそういう自分に自覚的になって、なるべく頭を柔軟に、新しい事態を受け入れられるようにしようと意識している。

 「正しく怖がる」って言葉に、そういう自分のジタバタを重ねてみるから、この言葉が好きなんだと思う。


 

*1:蛇足だけど、この場合、「一所懸命」より「一生懸命」のほうが私の感覚には合っている