おさらい・・・「生活単元学習」の時代の「掛け算」 学習指導要領 昭和26年改訂版を読んだ

ネットサーフィンをしていて、以下の資料をみつけました。
NICER教育情報ナショナルセンターのHPに掲載されているようです。

「小学校学習指導要領 算数科編(試案) 昭和26年(1951)改訂版
↓文部省
http://www.nicer.go.jp/guideline/old/s26em/chap4-1.htm
以下に、掛け算の順序について、興味深い記述がありましたので、引用します。

Ⅳ.算数についての学習指導法
第1部 一般的な事がら
7.有効な反復練習

(中略)
(3)計算などについて,理解をもたせる
「一冊5円のノートを,6冊買ったら,いくら支払えばよいでしょう。」という問題を解くときには,「5円×6」として,その結果を求めるのが普通である。ところが,この問題を,「ノートを6冊買いました。どれも1冊5円でした。ぜんぶでいくら支払ったらよいでしょう。」とすると,「6×5=30(円)」として毛かを求めるこどもがでてくるであろう。
 こどもが,このような誤った解決をするのは,かけ算の意味をひととおり理解しているにしても,その理解が形式的になっていることを示しているといえる。
 問題が,どんな形式でだされようとも また,いくつかの条件がどんな順序で書いてあろうとも,かけ算を式で示すとすれば,
(グループの大きさ)×(グループの個数)=(量全体の大きさ)

であることが,こどもにじゅうぶん理解されておらなければならない。この一般化がふじゅうぶんなために,6×5=30(円)というような式を書くのである。
 とにかく,形式的な練習に移るにさきだって,技能などについての理解をじゅうぶんに伸ばすことを忘れたのでは,反復練習したものを有効に用いることができないであろう。
(後略 以上、引用終わり)

 昭和26年といえば、その時代に小学生だった人が今の小学生の祖父母であってもよいくらいの時代です。学習指導要領は指導のてびき、というような位置づけで、昭和33年までは(試案)とついているものだったそうです。
 当時は「生活単元学習」と呼ばれる児童中心主義、経験主義のカリキュラムでした。大日本図書による当時の教科書もネットにありました。
教科書いまむかし 生活単元学習時代(小学校) -大日本図書-

 さて、この学習指導要領ですが、掛け算の導入が「何の何倍」(同数累加がベース)とになっているため、現在の(1つ分の大きさ)×(いくつ分)とは違うはず・・というか、この時代から続いていた指導方法に遠山啓が反論する中から生み出されたのが水道方式だったはず、なのですが、この指導要領算数科(試案)に書かれている内容そのものは、何度か紹介されている東京書籍の教師用指導書とほぼ同じだと思います。
 つまり、
(1)文章題から立式するときに「掛け算の意味を適切に記述する正しい順番の掛け算の式」がある
(2)それをこどもが理解しているかどうかを確認するために、問題文に登場させる数字を逆順にした問題を提示してチェックする。
(3)逆順での立式は誤り、それをする子どもは理解が形式的、一般化がふじゅうぶん、とみなす。
(4)理解をじゅうぶんに伸ばすことが大切。

という共通点があります。

おもしろいことにこの学習指導要領では「Ⅴ.算数についての評価」の部分にも、上記と同じような確認テストが例として出てきます。

Ⅴ.算数についての評価
1.評価のねらい
(1)指導計画や指導法を修正したり改善したりする必要を明らかにする
(中略)
 次に,評価が,指導計画を修正する必要を明らかにするのに,どのように役立つものであるかを,実例によって述べてみよう。
 三年の乗法九々の学習で,三の段がひととおりすんで,こどもたちは三の段の九々がすらすら唱えられるようになった。そこで,教師は次のようなテストを行って、こどもがかけ算の意味を理解して,九々を適用する力が伸びたかどうかを調べてみた。
問題 3人のこどもに,えんぴつを2本ずつあげようと思います。えんぴつがなん本いるでしょう。どんな九々をつかえばわかりますか。
 どんな九々をつかうかという問に対して,3×2=6と答えたものが予想以上に多いことがわかった。これによってこどもは問題に出てくる数を,その数の意味を深く考えもしないで,出てくる順に書き並べ,その間にかけ算記号を書き入れることがわかった。問題に出てくる数を頭の中にいったん収めて,演算の決定に導くように問題の場を組織だてる力が欠けているらしいことがわかった。そこで,その欠けていることについての再指導に入るわけである。
 3は人数を表している数である。それを2倍した答えの6は何といったらよいか尋ねてみる。それで,6人となって問題の要求に会わないことを説明する。このようにして3×2=6とするのが誤であることを明らかにしたとする。
 しかし,上のような指導だけでは,問題をすこし変えてテストしてみると,ほとんど進歩しないことがはっきりわかってきた。つまり,一方を否定するような消極的な指導だけでは,前に述べたような問題を組織だてる力を伸ばすのに,ほとんど役立たないことがわかった。これが再指導に対しての評価であって,指導の方法を修正する必要をつかんだわけである。そこで,問題解決を,同数累加の形にもどして,倍の概念をしっかり押さえるように指導したのである。今度は成功した。この事実を教師が見届けたのもやはり評価である。

(後略)

 ここの「評価」、「子どもの理解の評価」だけでなく、「教師の指導方法の振り返り」という意味での評価も含んでいて、この後の個別指導に関する評価の部分もなかなか面白いです。この昭和26年改訂版の学習指導要領は、「生活単元学習」を核としつつ、22年から始まった「新しい指導方法」の困難な部分をどうしたら克服できるのかという模索を形にしているようです。具体的な学年ごとの内容のリストアップや指導方法を出す前に、「生活」との関係の中で算数を子どもに役立つものにするにはどうしたらよいかと説き、学習指導法の記述でもまず個々の子どもを個人としてとらえ、個人の尊厳と個人差を重視し、子どもたちが「自学自習」して「必要に応じて(知識・技能を)(生活の中で)使うことができる」指導方法を工夫することが大切であると書いています。個々の子どもへのアプローチの方法は「診断的指導」と名づけられていて、医学モデルが背景にありそうな印象も受けます。*1

 それにしても、「指導方法」においても「評価」においても例として「掛け算の順序」が取り上げられているということが大変興味深いです。なぜだろうと考えてみました。
 仮説として私が思いつくものは、
(1)「掛け算」の指導でつまずく子どもが多いために、難しい指導であるということが経験的にわかっていたから。
(2)「掛け算」の持つ意味が非常に多岐にわたるために難しい指導であるから。
(3)生活場面で掛け算(そしてその延長戦上にある割り算)という演算を使う場面が多く非常に重要であるから。
・・・というか、今のネット上の議論をみても、全国的な学力調査の結果から見ても、実際のところは、この3つが一体化しているから指導や到達度の評価が難しいということのように思います。
 とにかく、「順序」だけでなく、「掛け算」はこの学習指導要領の昭和26年改訂版では、非常に重要な役割をもっていて、まだまだこの「評価」の部分に、掛け算の文章題を使った説明が続くのです。「1.評価のねらい」の(2)では「教材や教具の選択や活用のしかたが適切であるかどうかを明らかにして,これらがいっそううまく使えるようにする」というもので、足し算の繰り上がりと割り箸の束を例にしていますが、(3)の「こどもが,自分の進歩や停滞の様子を知り、みずから進んで学習していくようにする」という項目で、ここでふたたび掛け算の文章題が登場します。長くなるので引用はしませんけど、1個12円のリンゴを5個買ったときの全体の値段を計算するという繰り上がりのある掛け算に初めてとりくむというの問題でした。
 いくつかの異なる計算方法(累加の足し算、繰り上がりのない掛け算と足し算の組み合わせ、掛け算…ここでは順序の問題はとりあげていませんけど)が子どもから提案され、それぞれのどれがよいか、それはなぜかを話し合うことで考えさせる、という事例でした。
 12×5=60を支持した子どもには、割り箸(おはじきやタイルと同様、具体物の操作、という意味でしょう)をつかって、この計算の方法を工夫して説明できるように指導する、同時に、ほかの計算方法がよいと言った子ども(足し算の方がわかりやすいなどでしょう)には、リンゴ1個の値段を6円まで下げて5個の値段を計算させ、だんだんリンゴ1個の値段を上げて12円でも計算ができることを気づかせる指導をした、という事例になっています。

 こどもが与えられた問題を一応解決したところで,三つの方法があったことを紹介し,どれがよいかを判断させたことは,この問題解決に当って自分の試みた方法を自己評価させ,自分がどこまで進歩しているかを自覚させるためであった。どの方法がすくれているかについて考えさせたのは,その方法のよさがたしかにわかっているかどうかを自覚させるためであった。第三の方法*2によって計算することを,めいめいに工夫するようにしたのは,この新しい計算を自力で解決していけるというめやすを,こどもにもたせるためであった。
 難色を示したこどもには,かけ算の適用の初歩にもどって指導した。同数累加の事実に対して,かけ算が適用できるところまでわかっておれば,演算決定についての立ち遅れを取り戻すのは,さして困難でないことを,子どもも気づいたことであろう。つまり子どもは,自分が確かに進歩したことを,きのうの自分と比べて見出すであろう。
 こどもが自分の進歩を自覚し,また,進歩の遅れていることを知って,どうすれば工場できるかということを求め続ける態度を養うことが,評価の重要な一つの面であると云えるのである。

 このまとめの後、到達度の「評価」はマル、バツをつける筆記テストだけで行うものではない、という文章が続きます。なぜならば、たとえば掛け算の九々を形式的に暗記していても、実際の生活で掛け算を使って、「問題解決をすること」ができないであろうから、と。

 かけ算は,買物をする場合でも,測定の場合でも,計画的にものごとを順序立てて進める場合でも,これを適用されるようになっていなくてはならない。このように,生活の場が複雑になっても,じゅうぶんに使いこなせるようになっていなければならない。これで,算数が学校内外の社会生活において,かけ算を有効に用いられるようになったといえるのである。

 社会生活で有効に使えるようになる、ためには、複雑な状況の中でもかけ算を使えるようになること、そのために意味の理解が大切、そしてその意味は、より効率のよい同数累加の計算で同数累加の計算だから「かける数」は「かけられる数」を何回加えたかを示すもの、という理解が重要。ということのようです。
 昭和26年時点でかけ算の順序を「被乗数×乗数」で固定することを強調している*3のは、あくまでも実生活での「問題解決」により「効率よく」かけ算を利用できるようにするため、ということになります。

 昭和22年にできた学習指導要領は、新しい時代の教育のあり方として、児童の生活と主体的な活動を中心にすえてカリキュラムを組むことをうたい、各教科のカリキュラムの骨組みというか、子どもの発達に合わせて各学年で教えるべきことのリストと、その指導法の概論(26年改訂版よりもずっとあっさりしてます)が書かれたものでした。理念は「ゆとり教育」に似ています。
 この学習指導要領の基本には、GHQ占領下でアメリカ主導の教育改革の柱として取り入れられた「生活単元学習」・・・デューイの問題解決学習を理論的背景に持つ児童の生活を核にその問題解決を図ることで学習を進める、という考え方があります。占領下の教育政策とはいえ、民主主義の社会における教育の柱として現場でも歓迎されていたといいます。当初は。
 けれども、このカリキュラム下での学力低下が批判されるようになり、昭和26年には「学力低下」を裏付ける学力調査の結果(国立教育研究所の久保舜一による調査まとめ。昭和3年、4年と同じ問題で学力調査を行い、おおよそ2年ほどの遅れがあったという結果らしい)が発表されたりもして、より「系統的に学習をすすめるための指導方法」が各教科で模索されるようになりました。昭和26年は講和条約が調印され占領統治が終了した時ですが、算数に限らず、「生活単元学習」への批判が高まるのがこの時期です。
 数教協の設立もこの時期・・・結成が昭和27年・・・で、「生活単元学習」への批判を積極的にはじめます。けれども、同時に文部省もまた学力向上を模索しており、その結果が昭和26年改訂版ということになるでしょう。

12月20日、修正と加筆

 いま、学習指導要領の変遷も調べています。というか、それぞれの学習指導要領を読んでいるところです。それぞれの改訂版で、学習指導要領の書き方が変わっています。昭和33年に「告示」として(試案)が取れた「学習指導要領」が出されています。これは、それまでの「生活単元学習」批判から生まれてきた「系統学習」の考え方で書かれているものですが、26年(試案)改訂版のような詳細な具体事例での説明はされておらず、各教科の「解説」としての「指導書」が刊行されているようです。そして、昭和36年、38年には「小学校算数指導資料」のⅠとⅡが刊行されています。*4
 この「指導資料」(←文部省刊行なので、現在の「教師用指導書」とは違いますよね)の中にも、かけ算の理解をはかり指導を行う例としてかけ算の順序がとりあげられているようです。
参考:アメブロのメタメタさんによるエントリ 2010年2月17日
かけ算の式の順序についての調査結果(2の2) | メタメタの日

 太平洋戦争敗戦以前の掛け算の指導も気になって、あちこちのサイトを見ていました。
 検索でヒットしたなかに、いくつか学生さんのレポートがあって、わりとよくまとまっているなぁと関心したりしました。中にはレポート制作代行の販売見本なんかもあったりして、「算数教育史」は教員養成(おそらくは数学?)の重要な科目なんだろうなぁと思ったりしました。なかなかよく調べてまとめてあるなぁと思ったものを以下にご紹介します。
http://www.ge.ce.nihon-u.ac.jp/~ksuzuki/mathed/2hansiryo.doc
↑ドキュメントファイルなのでリンクははずしました。


とりあえず、今日はここまで。
おさらいはまだまだ続きます。
勉強しながらなのでぽつぽつ書いていきますね。

*1:実際、この「評価」のしくみやプロセス、考え方は、現在、私の本業である精神科リハビリテーションの個別評価ととてもよく似ていると思います。プロテクルスの寝台ではなくて、個人に指導を合わせるための評価、という意味で。

*2:12×5=60,繰り上がりの計算がある掛け算

*3:ように見えます

*4:指導方法の理念そのものが大きく変わったために、説明するべき内容が多くなったということかもしれないし、学校への期待値や要求が大きくなったということかもしれません

とりあえず資料 小学校2年生で「かけ算の順序」を徹底することは有効か??

国立教育政策研究所のHP
http://www.nier.go.jp/

全国的に実施された学力調査の結果から、小学校高学年(6年生中心)の算数の問題とその正答率、誤答の種類などを調べているところです。
掛け算、割り算を使って解く文章問題を、正答率、誤答の種類やそれぞれの誤答の出現頻度などを見ています。

「掛け算の導入」時に、順序を重視して教えているのが現在の教え方の主流だと考えられるので、その成果がどうなっているのかを調べてみようと思ったからです。
 とりあえず、資料として集めておきます。


平成17年実施「特定の課題に関する調査」
http://www.nier.go.jp/kaihatsu/tokuteikadai.html
より「算数・数学」
「特定の課題に関する調査(算数・数学)結果のポイント」
http://www.nier.go.jp/kaihatsu/tokutei/04002030200007001.pdf
 ここには、500円玉貯金をしていた二人の子どもの現在の貯金額を、「貯金箱を壊さないで計算して出す」ために、複数の情報から必要な情報を選択して立式する、という課題が提示されています。
 ・毎月500円ずつ貯金をしていたケースについては、必要な情報(貯金した月数)を選択できた子ども(正答率)は84.4%、立式の正答率は81.1%
 ・すきなときに500円玉を貯金箱に入れていたケースについては、必要な情報は複数選択あるのですが、全部選択できた(今の貯金箱の重さ、はじめの貯金箱の重さ、500円玉の重さ)子どもが61.1%、立式は50.6%
 後者の問題での立式は、
(はじめの貯金箱の重さ)−(現在の貯金箱の重さ)=(中の500円玉全部の重さ)
(500円玉全部の重さ)÷(500円玉1枚の重さ)=(中の500円玉の数)
 500円×枚数=現在の貯金
 という流れになりますが、この最終段階の式、
 500円×枚数は枚数×500円であっても正答です。で、これが導き出せていない子がけっこういるんですね。

 
「平成19年全国学力・学習状況調査の解説資料 小学校算数」
http://www.nier.go.jp/tyousakekka/gaiyou_shou/19shou_houkoku4_2.pdf
小数の乗法 210×0.6 になる問題文を考える問題
正答率54.3%



「平成20年度全国学力・学習状況調査の解説資料 小学校算数」
http://www.nier.go.jp/08tyousa/08kaisetu_02.pdf
P190
3m 6m 12mの3本のテープを比較して、何が何の何倍かを割り算を使って求める問題。

正答率:12mのテープが3mの何倍か、という問題では83.1%が正当
6mのテープが12mのテープの何倍かを求める問題では正答率55.7% 割合(倍)を1よりも小さい数でとらえられてい無いと考えられる。 



P141「平成21年度全国学力・学習状況調査 解説資料 小学校国語」
http://www.nier.go.jp/08chousakekkahoukoku/08shou_data/houkokusho/05_shou_bunseki_sansuu.pdf
子どもの人数のうち女子の人数を百分率で表す問題
正答率 57.1%
比較量と基準量をとらえ、割合を(比較量)÷(基準量)で求められること

平成22年度 全国学力・学習状況調査
4.教科に関する調査の各問題の分析結果と課題 (平成22年8月26日 授業アイディア例追加)
http://www.nier.go.jp/10chousakekkahoukoku/02shou/shou_4s.pdf
P148から
(1)8mの重さが4kgの棒の1mあたりの重さを割り算で計算する。正答率54.1%
(2)2ℓのジュースを3等分すると一つ分のジュースの量は何ℓか、分数で答える。正答率40.6%



私の意見についてはまた後日。

「数」の思い出  数唱と勘定と「だるまさんがころんだ」

「3×5≠5×3問題」のマイブーム、まだ続いてます。
これって、やっぱり何かのトラウマなのかもしれません。*1
 今は、国立教育政策研究所のHPで全国的な学力調査の問題別正答率や解説などを読んだり、kikulogにUPされた記事のコメント欄での応酬を読んだりしながらボチボチ考えています。


 今日はちょっと話が本題からそれますが、私の「数」と計算の思い出話を書いておきます。九九を覚えたときの記憶(部分部分しか覚えてないのですが)もあるんですよ。


 私は「計算」というものが苦手・・・というか苦痛です。いや一桁の暗算はいいんですが、桁数が増えた筆算をするのがだめ。項が多くなるのもだめ。ミスが多いんです。もっとさかのぼると数を数えること、数を順に唱えることも大変でした。落語の「時そば」じゃないんですが、途中で気がそれてどこまで唱えたか忘れてしまうし、数えているうちに目がずれてわからなくなることもしばしば。これは今も変わりません。*2

 数えることそのものに苦手意識がありましたから*3、何かを数える時にも、できたらなるべく「数える」回数を減らしたほうが間違いが少なくてすむ。
 「二の四の六の八の十」「ニィのシィのロォのヤのトゥ」と二つずつ数えることはたぶん小学校就学のちょっと前に覚えました。保育園で数字の練習をしたこともかすかに覚えていますが、それよりも、実家が自営業だったので、夜、祖母がおつりの準備に10円玉を10個ずつの山につくるのを見て手伝いながら(・・・実際には邪魔しながら・・・でしょうね)覚えました。これ、メロディがついているのがいいんですよね。手元は二つずつでこれは目で見て確認しながらできます。そして、数えるのはメロディの力を使っているので、私にとっては一つずつ普通に数えるよりもずっと楽でした。頭にかかる負担というか、ストレスが普通の数え方よりもずっと少ない。
 その延長線で「5、10、15、20、25、30・・・」という数え方も覚えました。5の倍数の数列を使った数え方。5つのかたまりは目で把握できますから、「にのしのろのやのと」と同じメロディをつけて数えます。4よりも6よりも5の方が目で見てわかりやすかった。たぶん2つと3つに分けて見ていた・・・今もそう見ている・・・と思います・・・


 お風呂で湯船につかりながら100まで数える、というのをやっていたのもたぶん同じころか小学校1年生のうちです。まだ妹が生まれていないころだから。これがなかなかうまくいかない。上に書いたように途中で忘れてしまうのでそうするとはじめからやり直したりします。のんびりつかっていて気持ちよいときはいいのですが、楽しみにしているアニメ*4があったりするとそうそうのんびり入っているわけにもいかない。

 あるひ、ふと思いつきました。
 「そうだ!『だるまさんがころんだ』で、いいんだ!」

 『だるまさんがころんだ』は鬼が後ろを向いてそう唱えている間に移動して、鬼が振り向いたときにはピタッと止まり、その繰り返しで鬼に近づいていく遊びです。
 『だ る ま さ ん が こ ろ ん だ』は10音ですから、指を折りながら一音ずつこの言葉を唱えると10数えたことになります。そして、最初の音である『だるまさん』の『だ』のときだけ指をおると10本の指で10回『だるまさんがころんだ』を唱えることができますから、10、20、30、40、50、60、70、80、90、100数えたのと同じことになる、という理屈です。私と3つ下の弟と一緒にお風呂に入っていた母にその考えを言ったら、それはずるい、と笑われました。数えていないというのです。確かに数字は数えていないんですけど。母は私が数えている間に弟の身体を洗ったりしていましたから邪魔だったんじゃないかと思いますけどね。まぁゆっくり温まってお風呂から上がるのだったら問題ないわけで、それからは「だるまさんがころんだ」で湯船につかってました。
  
 
 2年生で九九が始まったとき、二の段は「にのしのろのやのと」でさっくり覚えました。五の段も「5、10、15、20、25、30…」があるから楽勝です。3の段と4の段は何度も足し算をして覚えていきました。でも足し算の繰り返しをしていくうちにやっぱり計算違いがでてきたりするので3×7、3×8あたりになってくるとだいぶ辛くなってきます。「さんしち21」「さんぱ24」「ししち28」「しは32」はかなり苦労しました。でも逆に「さんく27」「しく36」はそれぞれ「30−3」「40−4」で出してしまうので楽でした。「六の段」「七の段」「八の段」はそれぞれ逆順をつかって計算。逆順ができない大きな数の部分だけ足し算していました。それまでに逆順でも同じ答えということは気がついていたのでしょう。それでもやっぱり「ろくしち42」「ろくは48」「しちしち49」「しちは56」は覚えるのに苦労した記憶があります。あやふやになってくると足し算をしたり数字のかたちや並びで覚えようとしたりしてました。「九の段」になると全部が逆順ででますが、素直に逆順の掛け算を使うのではなくて「20−2」「30−3」「40−4」ということを手がかりにして覚えた記憶があります。自分にとっての計算しやすさ、というか、計算まちがいをしにくい形というのがあったんですよね。
 なんで「10×2=20」「10×3=30」・・・をわかっていたかと言えば、そりゃ、10円玉が2個なら20円、3個なら30円ですから。



 ちょっとした思い出話です。苦労したところは覚えてるもんですよね。もうかれこれ40年(+α)ほど前の話なんですけど。 

*1:「『○○ずつ』のトラウマに違いないww」と隣で連れ合いが笑ってます。

*2:手計算だけじゃなくて電卓を使うのも苦手です。違うキーを押してしまうこともあるし、どこまで打ったか忘れてしまうこともあるし。学生時代に学食でアルバイトしたことがあるのですが、レジ打ちはダメでした。ちょっと混んで来ると打ち間違えるし間違えると頭が真っ白になるし。頼み込んでレジははずしてもらってもっぱら皿洗い専門になりました。表計算ソフトは私にとって救いの神です。エクセルだったらどこまで打ったかが画面に残るので確認できます!

*3:で、実際によく間違える

*4:そのころは「アニメ」とは言わなかったですよね。「テレビマンガ」でしたw

「ネタ」です。「5×3≠3×5問題」について、某ネコ型ロボットと仲間たちの「二次創作」をしてみました

 ふと思いついてしまったので書いておきます。21世紀の現在、親子二代にわたって親しんできたあの某ネコ型ロボットとメガネ少年の漫画に、「5×3≠3×5問題」が出てきたらどうなるか…よたよたあひるの脳内劇場・・・おやつに食べるには一人3個のりんごは多すぎるので、みかんに変更。皿は不要なので子ども(+ロボット)5人に変更*1

D:「ボクたちみんなにみかんが3個ずつあるってママが言ってたよ。Nくん、もってきてよ」
Nくんがみかんをたくさんもって帰ってくる。
D:「ちゃんと全員分持ってきた?」
N:「もっちろん!5人に3個ずつ、5×3で15個!」
S夫がニヤニヤ笑い出し、Gに耳打ち。
G:「おい、よこせよ。おれがくばってやるから」
N:「え〜・・・」
でも、NくんはGには逆らえないからね。みかんを全部渡した。
G:「まず、おれに5個、S夫に5個、Sちゃんに5個、以上!NとDには無し!」
N:「ひどいやひどいや。みんなに3個ずつのはずじゃないか。」
S夫:「N、おまえ、さっき『5×3』って言ってたじゃないか。かけ算の式は、『(一つ分の大きさ)×(いくつ分)=(全部の数)』なんだぜ。2年生のときにならったじゃないか。だから、5×3だと『5個ずつ3人分』てことになるんだよ。自分がそう言ったんだから、Gが正しい。」
N:「そんなぁ〜〜。ボクは5人に3個ずつって言ったのに。」
G:「そのあと『5×3』て言ったじゃないか。おれの勝ち!」
S夫:「かけ算の基本がわかってないって悲しいよね。ボクなんか小学校に入る前から家庭教師がついていたから・・・(以下、自慢話は略)」
N:「D〜〜、なんとかして〜〜」
D:「Nくんの計算だって、間違いじゃないよ。5人に1個ずつ配った場合を1単位にして、その3倍、単位つきで式を書いたら5人×3個/人=15個ってことになるんだから。」
N:「そうだそうだ〜」
G:「Dはコンピューター付きのロボットだからそんなこと言うんだ。Nがわかっているわけないだろ!」
S夫:「Nのくせに生意気だぞ!」
N:「ボクだって絵に描いたらわかるんだ!かけ算だってできるんだぞ。ひどいやひどいや。」
・・・・このあたりでNくんは半泣き状態。
Sちゃん:「GさんもS夫さんも言いすぎよ。今は算数の時間じゃないし、ちゃんと5人に3個ずつって言っていたじゃない。いくらNさんの算数のテストがいつも0点でかけ算がわかっていないからっていっても、それでみかんを取り上げるのはおかしいわよ。」
N:「Sちゃんまで・・・ボクだってわかってるんだよ〜〜。5人に1個ずつなら5個、2個ずつなら10個、3個ずつなら15個じゃないか〜〜(泣)」
Sちゃん:「ほらほら、もう泣かないで。みんなで3個ずつおみかんをいただきましょう。ね。かけ算の復習はあとで。丁寧に教えてあげるから大丈夫よ。」


 これからは算数にも道徳的視点を入れていくそうだからこんな感じかしらん。もちろん、GとS夫はわざと意地悪を言っているのだけど、「学校で習った公式」をもとにしているからNくんはどうもうまく反論できない。実は、Nくんの計算も「かけ算」としては間違ってない。式も間違ってない。ネコ型ロボットのDはNくんの弱点である「言葉で説明できていない部分」をわかっていて代理で説明しようとするけど、やっぱりその方法は多数派じゃないし、Nくんの算数がいつもダメだからという理由で認めてもらえない。*2
味方になっているみたいにみえるSちゃんもNくんを理解しているわけじゃない、ってところ。*3


 実は、某小さくなった高校生探偵と、少年探偵団の5人組でも場面を考えてみた。「5×3」と言うのはA美ちゃんで、公式を説明するのはM彦くんあたり。でも、メガネのKくんと茶髪のHさんの台詞が難しくなって私には書けないだろうとあきらめた。きっと違う展開ができるはずなんだけどな。もっとはてなっぽくなりそうなんだけど・・・

 ネタ話はこれでおしまい。




 追記:2010年12月7日

 コメント欄でのtakehikomさんとのやりとりの中で、あひる脳内ドラマのキャラクター設定を書きました。こちらにも一部修正のうえ書いておきます。


・Nは5×3を作図して思いつく子です。「題意による正答」ではなく別解にたどりついてしまうのはおそらく彼の思考の癖です。
・S夫は別解の存在も知っていてわざと意地悪を言っています。
・GはS夫の言うことに同調してそれを利用していますが、G本人が「理解している」かどうかは別の問題です。
・Sちゃんは、「題意による正答」をすんなり理解し、素直に「3個ずつを5人」ならば「3個セット×5」で「3×5」、「5×3」ならば「5人×3」になってしまう、と立式の違いを認識している子です。
・Dは当然数学的に考えています。そして、Nの考え方の説明がつたないのも理解してます。でも、Nの算数の成績を改善することはできないでいます。で、強く言えない。

 なお、このキャラクター設定の文中で使っている、「別解」「題意による正答」という言葉は、takehikomさんのエントリ
「×」から学んだこと - わさっきhb
から拝借しています。

 長いエントリなので、以下に該当部分を引用します。

児童への指導の仕方は専門外なので,かわりに,主要な求め方をいくつか書きます.

《題意による正答》(最小コストで正解にたどり着く方法):問題文から,「1つ分の大きさ」が(1皿あたり)3個,「いくつ分」が5枚であるのを読み取り,「しき」に「3×5=15」と書く.

《題意による誤答》:問題文から,かけ算で計算できる問題だと認識し,問題文に現れる数字のうち5と3を順に取り出して,「しき」に「5×3=15」と書く.

《別解》:問題文から,各皿に1個ずつ,順にりんごを配ることをイメージし,「1つ分の大きさ」が(1回で配る)5個,「いくつ分」が3回であると解釈して,「しき」に「5×3=15」と書く.

《吟味を経た正答》:《題意による正答》で得られる「3×5」,《別解》で得られる「5×3」を比較し,《別解》の書き方だと《題意による誤答》と誤解される可能性を考慮して《題意による正答》を採用し,「しき」に「3×5=15」と書く.

 いろいろ考えさせていただいたので、ここのブログをごらんになる方にもぜひ、全文ごらんいただけたらと思います。
 《吟味を経た正答》という考え方はなかなかいいな、と思いました。
 ただ、それでも《別解》を《題意による誤答》との区別がつかない、という理由でバツにするのには納得がいかないです。ごめんなさいね。takehikomさん。

*1:これは、多数派の考え方とN君の考え方が違っている上に、N君の言葉で説明する力が不足しているためにN君の考え方をみなにわかってもらえない、ということの寓話的表現で、別に、5×3をバツにする先生がG君と同様に横暴である、という表現ではありません。また、5×3をバツにすることがいじめを誘発する、という表現でもありません。念のため。

*2:別解を思いつくのは、「頭のよすぎる子どもたち」「勉強ができる子どもたち」ばかりじゃないと思ってます。

*3:少数派として実際に辛いことの一つに、考え方をわかってもらえないまま、優しくされたり丁寧に説明されたりすることはあるんじゃないかと。いやお気持ちはありがたいけど本筋はそこじゃないんだよ、という。

「5×3≠3×5問題」まだまだ続くあひる脳

「5×3≠3×5問題」論争!我が家の場合(笑) - よたよたあひる’S 「はてな」日記
では、連れ合いに「野生の思考」だの「異文化の住人」だの言われ*1、とにかくようやく通じたことを記事に書いたら、消毒さんから消毒された類は友を呼ぶ、よたよたあひるの「連れ合い」のオツムはやっぱりよたよたしてたよwww - 消毒しましょ!うえ、
連れ合いには「やっぱりまだあんたは俺の言ったこと理解してないよ。あんたの書いた『連れ合いの意見』は俺の言った言葉とは違うからね」とあっさり否定され、それでもまだまだ懲りずに「5×3≠3×5問題」にこだわっているよたよたあひるです。さらにおバカをさらしてしまいましょう。
 
 「家庭内論争」の中で、私が例の5枚のお皿と3個のリンゴの問題で混乱しているのは、文章題の読解方法だったということがわかりました(笑)。
 皿の1枚とリンゴの1個、それを同等の別の数、と考えるのではなく、
 「皿1枚にリンゴ3個のセット」を1つの単位として認識せよ、というコマンドが、「1さらに3こずつ」という形で文章題に入っている、それを読み取りなさい、ということなんですね。

さらが 5まい あります。
1さらに りんごが 3こずつ  のって います。
りんごは ぜんぶで 何こ あるでしょう。

「要するに、この「○○ずつ」という言葉がキーワードだったけど、読み取っていない状態、だったわけよね。」
「いや、もしやとは思っていたし、だからわざわざ『3個セット』という表現をしたんだけど・・・」
『3個づつ』というのは頭に残っているんだけどね、どうも『皿』と『りんご』という別々のものの数はやっぱり別々のものとして認識しているらしいよ。で、『5枚の皿に対してリンゴが1個づつなら5個、2個づつなら10個、3個づつなら15個』、式は『(1皿に1個づつのった状態のリンゴの数)×3(だから皿の数は増えない)』になる。だから、例えば『お皿が15枚になっちゃうよ』という修正の助言は理解不能になるの。」

 迂遠な捕らえ方だけど、「かけ算の概念」や「(1つ分の大きさ)×(いくつ分)」から外れているとはいえない。でも、「文章題のお約束」からは外れている。だったら、解決方法は、「○○ずつ」がキーワードであることを覚えること、になるのか?????
いや、やっぱりなんか違うよな・・・
と、いうようなことを今は考えています。

*1:とりあえず、理路は違うけれど「野生の思考」とまでは言えない、という結論に至ったそうです。

「5×3≠3×5問題」論争!我が家の場合(笑)

 はい、まだマイ・ブームが続いています。「5×3≠3×5問題」
「5×3≠3×5」問題について思ったこと - よたよたあひる’S 「はてな」日記
は、私が全力を尽くして書いた記事(エネルギーの80%くらいは作図に割かれているケド^^)でした!
 なのに、連れ合いはその図を一瞥して「あ〜、こういうめんどくさい考え方をするやつはいるよね」でおしまい。う〜ん、こいつは私の考え方を理解していないよな、と思って、ちょいちょい話をふっておりました。そして、今日の夕方から夜にかけての大論争の末、ようやく話が通じるようになって今はとても嬉しい。
 なんとか説明が通じた後の彼の感想は・・・
「俺がマジョリティの立場に立つなんてめったにない!レヴィ・ストロースの気分だ!『野生の発見』!」
ということでした。野生じゃなくて異文化でしょ!!なんだかなぁですが、記事にしておきます。*1
 連れ合いと私は、「5×3≠3×5」はおかしい、という点で一致しているのですが、その理由が違うんですよね。まず、当該問題の再掲。

〜〜〜〜〜〜
「さらが 5まい あります。
 1さらに りんごが 3こずつ のって います。
 りんごは ぜんぶで 何こ あるでしょう。」 

しき(5×3=15)←不正解 こたえ(15こ)←正解
〜〜〜〜〜〜 

連れ合いは、ごく単純化すると、
・【「一つ分」×「いくつ」=「全部」】という言葉の式でも「一つ分」と「いくつ」もまた交換可能、これは掛け算の数式で交換可能、というだけでなく、「3の5倍」と「5倍した3」というように日本語の中でも交換可能なのだから、ここを固定しなければならない、というのはおかしい。
 という意見。

 私のは、
・問題文を視覚イメージ化したときに、すでに抽象化が始まっており、「掛け算の概念」の把握が始まっている。一応【「一つ分」×「いくつ」=「全部」】という言葉の式をそのままの語順でなぞったとしても、リンゴの3も皿の5のどちらも「一つ分」にも「いくつ」にもなりうるので、耳で聞いた問題、文字で読んだ問題にでてくる語順に引きずられてそのまま視覚イメージを作ったとしても、「3×5」でなくて「5×3」という式を立てるのは可能。
 という意見です。

 ↑前の記事に書いたままの文章の再掲なんですが、どうもちゃんとした日本語にはなっていないようです。それで、また延々と説明をするはめになりました。以下、相当省略してやりとりの過程を書きます。

★★場面1 ファミレスで家族で夕食・・・食後のティータイム・・・★★
彼「だからさ、リンゴ3個が1セットなんだからその5倍、ということを「3の5倍」でも「5倍にした3」でもどっちでもいいんだよ。でも、3個セットは決まっているでしょ。」
私「そうじゃなくて、見方を変えたら基準の数がリンゴでもお皿でもいいの。お皿が先にでてくるからお皿が設定された数、って読んだってこと。」
彼「要するに、あんたが躓いているのは、問題文の読解の部分てことか。3個セットと5個セットは違うでしょ。何の何倍かはちゃんと理解していないと困るじゃない。*2
私「いや、『リンゴ3個セット』はそれはそれでわかってるって。だからわざわざ絵をかいたでしょ。」
彼「いや、その絵を描くエネルギーはまた別のところにそれていくから(笑)*3・・・あんたは『リンゴが3個のったお皿が5枚』だったらどういう式を立てるわけ?『3×5』でいいわけ?」
私「たぶん。その文章だったらリンゴが3個のったお皿が一枚ある絵が最初に浮かんで、そのあとそれが縦に続く。」
彼「要するにあんたが躓いているのは、問題文の読解ってことだ。」
といって、ファミレスのテーブルにあったコーヒークリームのカップをテーブルに並べて「3個セットの5倍と5個セットの3倍」の違いの説明を始める。 
いや、だからその違いはわかっているって。リンゴでもお皿でも数は可変で・・・とえんえんとやりとりが続く。30分はやりとりしていたと思う。娘はあくびをしてケータイをいじっている。

★★場面2 帰宅後PC画面をあけてもういちどやりとり ★★
 いろいろな想定問題を私があげて説明。
彼「要するに、引っ掛け問題に出てきた語順に引っかかったってことでしょ。文の構造を理解すれば「リンゴ3個セットが5倍」はでてくるでしょ。」
私「私は最初に5枚の空のお皿のイメージがある。そのお皿に1個づつリンゴがのっている状態が基本の1、だったらリンゴが2個づつのせるとその倍という話よ。」
彼「いや、あんたがそういう人なのは知っているし、そういう躓き方をする人が一定数いる、ということはわかった。」
私「いや、引っ掛け問題にひっかかったのは確かにそのとおりなんだけど、言いたいのはそうじゃなくて、『リンゴが3個』『お皿が5枚』というのはそれぞれ数を変えることは可能だって話。『リンゴ3個』をのせるお皿の数が変わっていく(可能性がある)からお皿の数が倍数になるんで、一枚のお皿の上のリンゴの数だって4個、5個と変えることは可能でしょ。方程式にしたらY=aXだけど、この問題に関してはYがリンゴの総数、定数aと変数Xはリンゴでもお皿でもどっちでも成り立つってこと。」
彼「・・・・・・もしかして、どちらの数が基準になるのかは恣意的なものだからアプリオリにはわからない、ということ?」
私「だから、最初からそういっているじゃない。可変だって。」
彼「問題文に戻ってみたときに・・・」
私「お皿にのった3個のリンゴを1セットとして見る見方が想定された問題の読み方なんだろうし、それが一般的なのは一応理解している。今はね。だから、文章題の読解に問題がある、ということは否定しないけど、じゃあ、問題文のどこにリンゴを基準にしなくちゃいけないということが書いてあるかということ。『一皿にリンゴ3個』という表現は確かにあるけど、『お皿5枚がいつもの数』ではない、ということは書いて無いよ。」
彼「俺がマジョリティの立場になっていたなんて!めったにないことだ。なんか感動した!!(以下略)」
私「さらに私はずうずうしいから、自分の考え方の上にあなたの考え方を載せる。リンゴとお皿はどちらも可変な数。だから「一つ分×いくつ」だろうと、「何の何倍」だろうと入れ替え可能なの。」
彼「そういう言い方で説明しないと通じないよなぁ。」
私「だから図を作ったんだけど。」
彼「それを言葉で表現するまで付き合った俺もすごいよなぁ。」
↑ここまで約1時間(笑)
 
結論:
私「問題がよくない」
彼「確かに一般的ではないにしても、適当に数を当てはめているわけではなく、それなりに論理的に説明できる考え方がある。でも、まったく自分の想定外の考え方を聞いて驚いた。しかもその全体を言葉にできているわけでじゃないし、そういうのまで相手にしなくちゃならない学校の先生は大変だ。」
私「私の問題はそれはそれであるのはわかっているけどね。何かを認知するときの癖がかなり強いんだと思うよ。ただ、小学校低学年の子どもはまだ生活の幅も考えの幅も限られているから、例えば、この問題のときに、5人家族の家で食事をお皿に盛るのが役割になっていて昨日はソーセージを二つづつ、プチトマトを3個づつ、ポテトフライを5個づつ、今日はめざしが3匹にしし唐の煮物が2本、なんてことを日常的にやっていたら、お皿が定数に見えることもあるんじゃない?お皿はいつも5枚で盛り付ける食材の数が変わるんだから・・・とにかく、私は比例とか中学での方程式とか関数がでてきてぐっと楽になったもの。」

*1:まぁ、身内同士の戯言です。自分の視野の外にあったけれども「それなりに合理的な論理展開がある」ものとして理解できたおどろき、だそうです

*2:ここで「何の何倍」という言葉がすっとでてきたのは、おそらく彼が(そして私も)習った掛け算の導入で使われた言葉をそのまま使っているからだと思う。それを指摘したら、そこまで覚えていないよ、と笑っていた。

*3:これには同意するんだけどね。目的がいかに見やすくきれいな図にするか、というところに変わっていく。手段と目的の混乱??

「5×3≠3×5」問題について思ったこと

 このところ「5×3≠3×5問題」がマイ・ブームでした。
 これ、ネットで「掛け算の順序」「かけ算の順序」を検索すると今回だけでなく、たびたび議論になっているのですね。皿にのったリンゴやミカンだったり袋入りピーマンだったり、具体物は違うのだけれど、同じ話、同じ議論が何度も繰り返されている。これはかなり根の深い問題だなぁと改めて感じました。

 今回話題になっていたのは、
-------------
「さらが 5まい あります。
 1さらに りんごが 3こずつ のって います。
 りんごは ぜんぶで 何こ あるでしょう。」
 
しき(5×3=15)←不正解 こたえ(15こ)←正解

                            •  

 家でその話をしていると、連れ合いも私も、「5×3」の立式がバツになるのは納得できない、という意見。ただし、その根拠はだいぶ違いました。
 連れ合いは、ごく単純化すると、
・【「一つ分」×「いくつ」=「全部」】という言葉の式でも「一つ分」と「いくつ」もまた交換可能、これは掛け算の数式で交換可能、というだけでなく、「3の5倍」と「5倍した3」というように日本語の中でも交換可能なのだから、ここを固定しなければならない、というのはおかしい。
 という意見。
 私のは、
・問題文を視覚イメージ化したときに、すでに抽象化が始まっており、「掛け算の概念」の把握が始まっている。一応【「一つ分」×「いくつ」=「全部」】という言葉の式をそのままの語順でなぞったとしても、リンゴの3も皿の5のどちらも「一つ分」にも「いくつ」にもなりうるので、耳で聞いた問題、文字で読んだ問題にでてくる語順に引きずられてそのまま視覚イメージを作ったとしても、「3×5」でなくて「5×3」という式を立てるのは可能。
 という意見です。

 連れ合いの意見は各地でいろいろな方が論陣を張っていらっしゃるので、ここでは私が何をどう考えたのかを図にしてみました。*1

 まずは、問題文が通常教科書などで説明されるであろう図は、お皿がテーブルの上にランダムにならんでいたり、一直線にならんでいたり、その横並びが多少前後していたりすると思います。足し算、引き算の単元ですでにおはじきなどを使って、数直線のようにまっすぐならべて数を数えることは経験してますから、一直線上に描きました。


 ところが、これって横長で目で把握するのが大変なんですよね。お皿の数の5はまだパッとみて把握可能なのですが、リンゴの数でみると15あるわけですから、見にくいんです。*2だから・・・お皿を縦にならべてしまいます。これでずいぶんすっきりします。

 この間、いろいろと考えてきましたが、実はこの操作を行った時点で、足し算の繰り返しから掛け算にジャンプし始めているのじゃないかと思い至りました。視覚イメージを使って、数の把握の方法が、直線という一次元の整理から面という二次元の整理に飛んでいるんです。そういえば掛け算の答えは「積」というのでしたね。線の長さと線の長さを掛け算してでてきた答えが「面積」という新しい単位を作り出しているというのがまさに「掛け算」の意味で、それは累加で計算できるものであっても思考方法の次元が変わるという意味では同じことなのかな、と。
 もしかして、http://d.hatena.ne.jp/logic_master/20101118/1290089284ってこういうことじゃないでしょうか。掛け算の導入時に、実際に答えを出す、あるいは検算をするときには足し算の繰り返しを使うこともあるわけだし、この問題などは累加でも当然答えは出るのです。そして重要なのは交換法則も同時にでてくること。
 もちろん、お皿を縦に並べたからと言って、掛け算の概念がわかっている、ということは必ずしも言えませんし*3、わかりかけていても説明できる子とできない子は当然います。でも、整理の方法が変わる、ということでなにかもやもやと分りかけてきている状態にはあるのじゃないかと考えるわけです。
 口の達者な子だったら、いろいろと説明できます。

 これは視覚イメージにプラスして動作をてがかりにしているわけですよね。
 「ひっかけ問題」として作られた語順にはみごとに引っかかっているのですが、「リンゴを配る」という時間軸を取り入れて説明しています。図の見かけはお皿が15枚ありますが、これはアニメーションにしてしまえば5枚のお皿ですみますからね。そして、「線から面へ」の理解が十分でなくても、例えば、5人家族でいつもお皿が5枚、のせるものの数が時によって変わる、という経験を持っているとごく自然にでてくる発想だと思いますよ。ソースは私。子どものころは5人家族でした(笑)。

 これは、動作を手がかりにしたものよりも抽象度が高いような気がします。抽象化されたお皿とリンゴだから可能な説明で、図上での位置を手がかりにしているわけです。
 でもって、もっとも抽象度が高い説明は

 式を立てる段階ですでにお皿の影も形もなくなってしまう。
 これは問題文を理解していない、と言われてしまいそうですが、求める答えはリンゴの総数でお皿について言及せよという文言は無いのですし、手がかりとして与えられたお皿の数と皿の上のリンゴの数はちゃんと使っています。何を求めるのか、そしてそのためにどの数を使うのかを分っていなければ作れないイメージではないかと思います。あえて言えば、「交換法則をすでにわかっていて3×5=5×3=15を省略した式を立てた子」ということになるかもしれません。


 5×3を立式としては不正解、とする意見の中に、不正解または子どもにどのように考えたのかを聞く、というものがありました。
 そして、(一つ分)×(いくつ)=(全体)に合わせた説明を子どもがうまくできない場合には「理解していない」とみなすんですよね。
 そして、フォローとして、「この式だとお皿の枚数が15になっちゃうよ」という説明をする、という趣旨の回答をあちこちで見ました。この説明にも一定のマニュアルがあるような気がします。
 でも、この説明では「何を言われているのか理解できない」子が絶対にでてくる。
 私は自分の思考プロセスでその説明を読んだときに、最初は頭が真っ白になりましたもん。子どものように反論してみると、「だって、私が見て計算で数えたのはお皿じゃなくてリンゴなんだもん。お皿は増えないもん。」というところでしょうか。
 説明を3回読んでようやく「問題文はお皿が5枚、それぞれにリンゴが3個という意味で書いてある。お皿の数の5を3倍するということはお皿が15枚になる。ちゃんと『一皿』という言葉で『何が(一つ分)か』を書いてあるのだから」という意味だと分りました・・・私の理解が悪いのはそこの部分ですね。
 というか、この頭が真っ白になってしまうディスコミュニケーションに唖然とした状態は、理解が曖昧…概念を獲得する途中である場合にはダメージが大きいです。この先何を手がかりにしてよいのかわからなくなる。言葉での説明が下手で絵で理解(しかかっている)子にはつらいと思います。エネルギーのある子だったら文句を言ったり騒いだりして、問題児・・・指導困難事例とみなされてしまうかもしれませんし、おとなしくて内気な子だったら、質問するすべもなくただ困っているだけになってしまうかもしれません。

 そして、このひっかけ問題は、「掛け算の概念の獲得」とは無関係の話だと私はやっぱり思います。
「何を単位(一つ分)としてみなすか」は「お皿にのったリンゴの数」でも「お皿に一つリンゴがのっている状態」でも「リンゴを一つづつのせる動作」でも、求める数がリンゴの総数である、ということはわかっていて、それを導き出すための基本になる「単位(一つ分)」を問題文から見つけ出して掛け算をしているということになるわけです。
 (一つ分)×(いくつ)=(全部の数)の図式どおりに式をたてても、問題作成者が想定した以外の(一つ分)を直感的に見つけてしまう子は絶対にいます。そして、その説明ができるとはかぎりません。「視覚的認知」が優れていても「聴覚的認知」や「文字情報からの理解」が悪い子はいます。表現力はさらにまた別の力になります。
 
 だから、「5×3」を不正解とするよりも「5×3」と書いた子どもの思考のプロセスは是非是非丁寧に聞いてみて欲しいです。「(一つ分)×(いくつ)に合わせると5はお皿の数だからお皿が15枚になってしまう」と決め付けずに。そして、言葉が足らない子にはぜひ、言語化の手伝いをしてあげてほしい。せっかく得た手がかりを全否定する評価やフォローは混乱の度合いを深めることでしょう。
 でも、教師用の指導書などに正解の型は書いてあるんですよね。このひっかけ問題の形も書いてあります。小学校の先生は全教科を教えなくちゃならないから、指導書は大事な指導のてがかりのはず。教える側の意図とは違う道筋であっても、概念獲得の途上にちゃんといる子をわざわざ潰すことがないようにしてほしいです。

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*1:図を作るのが楽しかったです。私は昔から絵ばかり描いている子でした。掛け算の導入のときも絶対に絵を描いていたはずです。

*2:短期記憶の記憶スパンと関係あるんじゃないかと思ってますけど。ちゃんとは知らないから書けません。はてなーにどなたか詳しい方おられないかな

*3:たまたまテスト用紙の余白の形に左右されて縦に描くしかないなんてことはよくありますからね。でも、九九を覚える過程でアレイ図という図を使う場合もあるそうですから、縦に描くとすっきりすることを体感している子は多いのじゃないかしら