「社会貢献活動」推奨に感じるちょっとした懸念
前の記事、
↓【「社会貢献活動」って何?!】
http://d.hatena.ne.jp/yotayotaahiru/20101025/1288019642
のだいぶ遅れた続きです。しかもちょっとインスタントなのをお許しください。
もっと
あの記事を書いたあと、例のYOMIURI ON LINEの記事を、
「無利子貸与奨学金を受けるためには『社会貢献活動』をしなくてはならない」
という読み取りは誤読であって、「社会貢献活動」は在学中の義務ではなくて、成績以外に「無利子貸与奨学金」を受けるためのオプションだ、という話がありました。たしかにそう読めば読み取ることはできます。
そそっかしい自分の読解は反省してます。
でも、冷静になったうえで、もうちょっと考えてみました。
文部科学省が「社会貢献活動」というものを無利子貸与の奨学金や大学への補助金という形で経済誘導しようとしている、ということにはかわりないと思います。パラパラと情報がでてくるのは・・・各報道機関の取材のたまもの・・・なのかしらね・・・
ただ、何をもって「社会貢献活動」というのか、それは明らかではないし、逆に言えば、メニューを提案していくのは補助金を申請する各大学でしょう。授業とリンクした活動がでてくる可能性も大きい・・地域の活性化とか子どもを対象にしたワークショップとか、「社会貢献活動」がそのまま大学生の学びを深め単位になるのだったら、そしてそれが大学院を志す際の無利子奨学金を獲得する上で役に立つのだったら、それはそれで一つのあり方として認めた上で、さまざまな提案を認めさせていくということも大切になるだろうと思います。でも、基礎研究の領域はやっぱり不利になるような気がする。志す学生が減ってしまうかもしれないです。
その上で、やっぱり気になるのは、前の記事で書ききれなかった、
(4)「社会貢献活動」の美名のもとに社会の不採算部門をボランティアばかりで埋めようとしないで欲しい です。
まずは、有村さんのブログ記事に書かせていただいたコメントの再掲
↓
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20101022/1287712210
【ビジネスから10000光年 文科省は社会貢献活動をなめるな(ブログ版)】
---------------------
>文科省の主張は「社会還元の意識を根付かせたい」という精神論。ダメすぎる。
↑
に、基本的に賛成。
ただ、有村さんも注2で書かれているように、「役にたつ」かどうかが問題ではないです。
私なんかはこの記事で読み取れる内容については批判的立場をとりますが、実際に制度ができて動き始めたら「使えるものはなんでも使う」立場に立つでしょう。「役に立つ」ものを拾い出せば拾えないことはない・・・いろいろ手間はかかるでしょうけれども・・・
私が、こういう「社会貢献のススメ(もしくは強制)」がいやらしいと感じるのは、「社会貢献」と呼び「無償の(あるいは低額な有償の)ボランティア」を前面にだすことで、収益の難しい部門を「やりがい搾取」で埋めようとする意図を感じるからです。収益をあげるのが難しい、賃金が上げられない、人が集まらない、そこに公費負担を増やして賃金水準をあげる、のではなくて、センチメンタルな精神論で費用を抑制する。
学生時代に強制された中途半端な「社会貢献」なるものの経験をするより、介護にしろ、貧困家庭の子どもたちの学習支援にしろ、援農にしろ、放置された山林整備にしろ、わかりやすい「社会貢献」の不採算部門が一人前に食べていける労働条件のちゃんとした仕事になっていたらいいのに、と思います。自分の生活の安定があってこその「社会貢献」ですよね。
「役に立つ喜び」に「ちゃんとした収入」がセットになっていたら強制されなくても意欲はわきます。その上でなら余暇時間の活用として「楽しいボランティア」ができるでしょう。自分の生活のゆとりなくして「社会還元」はありえない。「情熱」だけで走るのは長続きしませんもの。
つづいて、HitTheSupportersBullさんのブログ記事に書かせていただいたコメントの再掲。
↓
http://d.hatena.ne.jp/HitTheSupportersBull/20101108/1289208568
【Irony Fool わたしの話からみんなの話につなげたいのだけどうまくいかない】
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こんばんは。よたよたあひるです。
トラックバックありがとうございました。
お気持ちはわかる、と思ってます。
確かに、人は自分の興味関心のあるものを追っていきますから、どんなに近くにある場所であっても、あるいはごくごく身近にいる人のことであっても、見たくないものは見えないし、知ろうともしない、気が付くことも無い、ということはありますよね。
それから、入所施設(私も以前は重度の障害者施設にいたことがあります)の利用者が、外からの風、お客様を楽しみにするのもわかります。
だから施設がボランティアを積極的に受け入れる意義は、ボランティアをする人にも施設の利用者にも利益がある、ということは痛いほどわかるのです。身体介護そのものの役に立つかどうかということではなくて、外の人が足を運んでくれていつもと違う何かがある、ということだけでも活気がでる、ということの大切さですよね。
その上で、もうちょっと言いたいなと思ったことを書きます。
(自分のブログの続きがまだ書けないので)
私は、ボランティアが生きるのは、ボランティアをする人も受け入れる側も「ゆとり」があるときだと思っています。例えば「職員は忙しいから十分に話し相手になれない、だからボランティアさんがきてくれるとありがたい」というのは、切実なことではあるのですが、どこか転倒している。要介護度が高い利用者が多い施設ほど、ADL介護に手一杯になるのは仕方ないことなのですが、ADL介護の部分にだってコミュニケーションをとりながらの気持ちのゆとりが欲しい。栄養補給や清潔保持のためだけじゃなくて、「人」と「人」の関係の中で介護できるようにな職場環境が当たり前になって欲しいです。
そして、ボランティアをする人も、「必死にボランティアをする」「奉仕の精神でボランティアをする」のではなくて楽しんで欲しいと思います。ボランティアをする人が楽しめるボランティアになるようにするには、受け入れ側にもゆとりが必要だし、ボランティアをする人にも時間的・経済的ゆとりは必要。でも、なんだかそのあたりがゆがんでいることが多くなってきた気がしています。
子どもの養育や介護施設などは、しばしば「ボランティア活動」の舞台になります。大抵は利用者のQOL(クオリティオブライフ)の向上、簡単に言ってしまうと、利用者にとって何か楽しいこと、ADL介護・・・日常生活のお世話だけではなくて、生活に潤いを持たせる何か、をボランティアさんが提供してくれることが多いです。でも、どうしても人手が足らない場所だと、専従職員以外に、利用者の家族がボランティアとして施設の活動を支えていく場合があります。養護学校の卒後対策とか精神病院を退院する人の日中の活動場所として家族会が設立・運営する作業所とかグループホームなんかは施設活動の重要な部分を、利用者の家族を含むボランティアが担っている場合があります。喫茶店やリサイクルショップの運営をしている場合に、そのお店の運営を専従職員(常勤+パート)と利用者だけではまかないきれず、家族や知人や何かのきっかけで参加するようになったボランティアスタッフが活躍していたりします。
無償のボランティア活動と賃労働による援助・支援サービス提供がまったく競合しないものであるならば問題にはならない・・・でしょうけれど、競合する場合は、賃金水準が下がる要因になります。そして、やっかいなのは、保育サービスや介護サービスを必要とする人は必要とするサービスを購入しようとしても、そこにかかる人件費を全部個人で(あるいは当該世帯で)負担することができない状況にある(場合が圧倒的に多い)、つまり何らかの公費投入は避けられないというわけ。そして公費の投入もまた制限されている(・・・当たり前のことですが)ので、「安く質の良いサービスの提供」はとても大切です。でも、結局のところ、人件費が最大の支出なわけで、「安く質のよいサービス」を提供するには、運営団体の取り分を減らすか、人件費を抑制するしかない。効率化は限界があるから。というか、「より効率よく」働くということは、ブラック企業状態に陥りかねないんですよね。
一方の解決方法として注目されていたのは、非営利団体の活動なんですが、いかに非営利団体であっても、人件費をそうそう削減するわけにはいかない。それを職業として食べていくことができるだけの賃金を提供していくことが難しい場合、やっぱり別に食べていく手段がある人が補助的な収入を得るための場所にしかなり得なかったりする。あるいは若いうちには職員として働いても、結婚や子どもを持つようになると他の仕事を探してやめていったりする。ある程度規模の大きい、医療法人や社会福祉法人(お給料の水準は一応保証されている)の場合、賃金水準を下げないために労働時間の条件が犠牲になることもある。
そういう状態をなんとか変えていかなくちゃだめでしょう。
また、運営団体が「良心的」で「利用者のためになんとかしたい」と思えば思うほど無償のボランティアの活動と賃労働の職員の活動の内容を「外から見た場合に」区別するのが難しくなるということもあります。いや、内部にいても区別は難しい場合もある。
「差」はあるんですよ。責任の重さ、という差が。
これが難しいのは一方でボランティアスタッフがいて、他方に賃労働職員がいて、共同で仕事を進めていくときに、「私はボランティアでやっているのにお給料をもらっている人はもっと働いてくれてもいいはず」という期待がでてきてしまうことというのもあります。生活共同組合の専従賃金職員と組合員や、PTAの先生と保護者の関係の難しさなんかも似ているかもしれません(PTA活動自体は、先生もまたボランティア、なんですけどね・・・活動場所が学校の行事だったりすると軋轢が大変だったり・・・)。
またまた中途半端だけれど、とりあえずupしておきます。
「社会貢献活動」って何?!
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101021-00000027-yom-soci
↑【奨学金の条件「社会貢献活動への参加」追加へ】
読売新聞 10月21日配信記事
についての有村悠さんの記事にブクマしたらIDコールをいただきました。
↓有村さんの記事
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20101022/1287712210
【ビジネスから10000光年 文科省は社会貢献活動をなめるな(ブログ版)】
有村さんのIDコールは、「わかりやすい社会貢献の場」と目される、「福祉」の現場にいるよたよたあひるに意見を聞いてみたかったのでは、と思うのだけど、この件に関しては、いくつか言いたいことがあるので、なんとかまとめて自分のブログエントリにしてトラックバックをお送りすることにしました。
記事を書くきっかけをいただいて感謝してます。有村さんありがとう!
さて、書きたいことは以下の3つ。それぞれを小見出しにします。
(1)「社会貢献活動(≒奉仕活動)の強制」という問題
(2)何が「社会貢献活動」なのか、それを誰が決めるのか
(3)「学業」も「社会貢献活動」だし、「バイト」だって、「社会還元をする」基本を学ぶわけだし。
(4)「社会貢献活動」の美名のもとに社会の不採算部門をボランティアばかりで埋めようとしないで欲しい
このうち、(4)はもうちょっと整理してから、改めて書きます。(1)から(3)をまずUPしておこうと思います。
では本文です。長文失礼します。
(1)「社会貢献活動(≒奉仕活動)の強制」という問題
最初、ニュースの見出しだけ見たときは、てっきり看護師確保対策として出されている奨学金の返済免除お礼奉公みたいなものかと思いました。
「お礼奉公」については下のURL参照のこと。
http://www.asahi-net.or.jp/~zi3h-kwrz/law2roore.html
いや、「お礼奉公」はそれはそれでいろいろと問題をはらんでいるところもありますが、少なくとも、看護学校卒業後の就職先があり、就職してからは「ただ働き」というわけではないのですから、卒業後になんらかのボランティアを義務付けられるのは「お礼奉公」よりひどい話・・・と思って、ニュース記事本文を読んでみたら、在学中になんらかの「社会貢献活動」をしなくちゃならない、ってことみたいですよね。それで、「公費で学ぶ学生に社会還元の意識を根付かせたいとしている」とのことですから。
それから、「社会貢献活動の場の提供に積極的な大学にも補助金などを上乗せする方針。」ということも書いてある。
この話の何が一番嫌かというと、「社会貢献(≒奉仕)の強制」(←ものすごい矛盾)というところで、これは、東京都の高校や中学校に取り入れられた「奉仕」のカリキュラムに対する嫌な感じと同じなんだけど、さらにそれを大学、専門学校、大学院の学生に対して「教育」の名のもとにやろうとしていることです。さらに、その手始めに無利子貸与の奨学金受給者に目をつけたことも、ものすごく嫌らしい。
「強制」に否と言えない、世論からもある程度、賛成を得やすいそういう層を対象にはじめようというところが嫌らしい。 学校に補助金を上乗せ、というのは経済誘導ですよね。
学習指導要領でしばることができない大学や大学院や専門学校に「場」の提供、学生への利用の推奨をさせるわけ。そういう事務を始めたら維持するために、「無利子貸与の奨学金受給者」だけではなくて、広く全学生を対象にしていくことは目に見えている。「公費で学ぶ学生」という定義は、公費の補助金がでているということで言えば全学生ということになりますよね。無利子貸与奨学金の受給者が、まず目立つだけで。
いや、昨今の学生、そしてもっと広く若者に、「公共心が薄い」とか「社会貢献の意欲が無い」とか「わがまま、自分勝手」とか「自分中心」とか「仕事が続かない」とか、そういう批判を呼び起こすようなエピソードがあるのも確かですが、でも、若者・・・だけじゃなくて人間、と言ったほうがいいかもしれない・・・は、「置かれた立場」で変わるものです。
あらかじめセレクトされた選択肢の中だけの自主活動(活動そのものは強制されているから)を行わなくてはならないというのは、行動に責任を持つ主体である、そういう立場に置かれることなく、「これを上位の存在に言われた義務としてやっておかなくてはならない」状態に置かれるということ。若者を「子どもの立場」に留めておき、イエスマンを育成する方法ですよね。
もはや、20歳前後の若者は「お子様」であり、大学はおろか大学院にも「自治」も「自主運営」もありえない、というそういうことですか。
今の学生、若者を育ててきたのは、今の日本の社会、今の大人です。今の社会でリーダーシップをとっている40代、50代の育ってきた時代は、「ゆとり教育」以前、「70年代中教審答申 期待される人間像」の理念を持つ学習指導要領の教育を受けてきた世代です。
↓「期待される人間像」の全文
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/chuuou/toushin/661001.htm
この昭和38年に出された答申の中にも、「社会人として」「仕事に打ち込むこと」「社会福祉に寄与すること」や「社会規範を重んずること」、「国民として」「正しい愛国心を持つこと」「象徴に敬愛の念を持つこと」などなど、かつての「教育再生会議」がとっても喜びそうな文章もならんでいたんですけれどね。それでも今の日本の若者を「公共心が薄くて、社会還元の意識が根付いていない」人間に育ててきてしまった、その原因はどこにあるんでしょうか。日教組が悪い、で済む話じゃないですよ。まったく。
(2)何が「社会貢献活動」なのか、それを誰が決めるのか
無利子奨学金を受給する学生に、「社会貢献活動」を義務づけるということは、実際にやったかどうかをなんらかの形でチェックするということになりますよね。
「社会貢献活動」が、「社会のためになる」あるいは「社会を良くするために行う」活動、とするのなら、社会福祉施設の体験ボランティアやら水源保全のための森林整備とかオーガニック野菜の共同購入やらそのための援農やら街をきれいにするためにごみをひろう活動やら各種募金活動やらばかりではなく、問題提起のために学習会や講演会を開くこと、何かを訴えたくてドキュメンタリーやフィクションの作品をつくることだって、「社会貢献活動」だろうし、もっと言ってしまえば、主観的には、政治的な集会やデモ、信仰する宗教の布教、まで、幅広くいろいろな「活動」が考えられます。
さて、想定されているのは、いったいどんな「社会貢献活動」なんでしょうか。
例えばシーシェパードの活動に参加しました、をカウントはしないでしょうし、左右を問わず政治性が高い団体のデモに参加したり署名活動やビラ配りや募金活動をしたところでカウントはされないだろうと思いますし、赤い羽根共同募金の街頭募金を行うことや、市民祭で「社会を明るくする運動」のパレードに参加して宣伝のチラシを配ることはカウントされそうな気がします。自分が生協に加盟して無農薬野菜を購入することはカウントされないだろうと思いますが、その生産者支援のための援農活動なら、場合によってはカウントされるかもしれません。派遣村運営ボランティアはどうでしょう。学園祭の実行委員はカウントされるかしら。学会の事務局を手伝うことはどうでしょうか。何も団体がバックについていない単身生活をする身体障害者の介護に入ることはどうなんでしょうか。社会福祉法人やNPO団体が主催する活動、たとえば、識字教室や日本語教室でボランティアをすることや不登校の中学生や貧困家庭児童生徒、高校中退者への学習支援活動やキャンプのボランティアをするのはカウントされそうですが、バイトで補習塾の講師をしたり、ネットで知り合って仲良くなった人がたまたま障害者で一人では出かけられないから、共通の趣味の映画(ジブリでもダブルオーでもいいんですけど)に一緒に行って欲しい、なんて場合はカウントできない気がします。
いや、新聞記事にはまだ何も具体的なことは書かれていませんから、このあたりは私の妄想炸裂状態なんですけど。
行政は「中立」と「公平」を志向しますから、「特定の思想・政治性」を持つ団体はなるべく排除したいでしょうし(かといってまったく色のない団体なんてないでしょ)、個人的な営みや営利に関わるものは「社会貢献活動」とみなさないのじゃないかしら。
公のお墨付きの「社会貢献活動」とそうでない「社会貢献活動」があからさまになるんじゃなかろうか、という懸念を持ちます。
「社会貢献活動の場の提供に積極的な大学にも補助金などを上乗せする方針。」ということは、学校が学生の「社会貢献活動の場」の提供をすることもあるわけですよね。で、それを補助金査定のために文科省がチェックする。公のお墨付きの「社会貢献活動」リストができてくるってことじゃないですか?
(3)「学業」も「社会貢献活動」だし、「バイト」だって、「社会還元をする」基本を学ぶわけだし。
(2)のところで、「わたしがかんがえた社会貢献活動(妄想編)」をいろいろと書き連ねましたけれども、学生の本分である「学業」や「研究」やだって「社会貢献活動」ですし、バイトだって「社会還元をする」基本を学びます。
まずはちゃんと本分である学業のほうに力をさくことができる環境をつくるのが先でしょう。
「奨学金を返済しない人」、返済猶予せざるを得ない人は、要するに返済できる収入が得られないということですよね。「職」がまったく無いというわけではなくて、単に「わがまま」なだけという人もいるのかしら。でも、無理な働き方をして身体を壊したり精神を病んだりする人だって多いわけで、「社会貢献」の意欲がないから、という精神論ではすまされない。
そして、社会が必要としている仕事があって、そこに人手が足らないのなら、きちんとしたお給料を払って雇用する仕組みをなんとか作るしかないはず、じゃないですか。お金が回れば雇用になるところを、無償の「奉仕」でまかなおうというのはどこかおかしい。
不採算部門を外部化しておけば、経済活動の外側でなんとかなる、わけじゃないんですよね。
お知らせ 東京大空襲・戦災資料センターのイベント
連れ合いから、「このシンポジウム、はてなの皆さんにもお知らせしておいたら」といわれたので、宣伝します。
東京大空襲・戦災資料センターの戦争災害研究室主催、
「第4回 無差別爆撃シンポジウム
帝国と空襲
イギリス・台湾句集を検証する」
http://www.tokyo-sensai.net/info/info2010/info2010-15.html
日 時:2010年10月23日(土) 13:30〜18:00
会 場:明治大学駿河台校舎研究等2階第9会議室
(JR総武線・中央線 御茶ノ水駅下車徒歩7分)
参加費:無料
問題提起:
大岡 聡(日本大学法学部准教授 東京大空襲戦災資料センター研究員)
報告者:
山根和代(平和資料館「草の家」理事 高知大学非常勤講師)
「イギリスにおける空襲展示について
ロンドン・コヴェントリーを中心に」
洪 致文(国立台湾師範大学地理学系助理教授)
(仮)「台湾におけるアメリカ軍空襲と防空疎開が都市発展に与えた影響について」
☆報告後、コメントと討論があります
詳しくは上記URTの東京大空襲・戦災資料センターのHPへ。
残念ながら、私自身は実家の親族の集まりがあるので参加できないんですが・・・「事実」を正確に調査、研究している人の話は聞いていてとても勉強になります。
8月15日は小岩コミュニティホールに、映画『土徳 焼跡地に生かされて』を観にいく
明日は家族で小岩まで行きます。
小岩コミュニティホール
(江戸川区立小岩図書館2階)
江戸川区東小岩6丁目9番14号
総武線JR小岩駅下車 南口サンロード徒歩10分
ここで、友人のドキュメンタリー映像作家である、
青原さとしさんの映画の上映会があるのです。
「メイシネマ上映会'10 夏プログラム」
http://videoact.seesaa.net/article/159002073.html
↑紹介しているサイトを見つけました。
料金:1プログラム 一般(予約)・シニア(60〜)・学生(大/高) 1000円
当日一般 1200円 小・中学生 600円
2プログラム 一般(予約)・シニア(60〜)・学生(大/高) 1800円
当日一般 2000円 小・中学生 1000円
開場 11:00
上映プログラム
12:00〜『三百七十五年目の春風』
14:20〜『土徳―焼跡地に生かされて―』
17:00〜『三百七十五年目の春風』
この『三百七十五年目の春風』と
『土徳〜焼け跡地に生かされて〜』
両方とも青原さんの作品です。
どの回も上映後に青原さんのトークがあります
上映する映画は2本。
一本が今年の新作、『三百七十五年目の春風』
この内容はちょっとわからないのですが・・・お寺の映画らしいです。青原さんは法名を持ったお坊さんでもあります。
公式HPにちょっとだけ載っていた案内だと・・・
「広島市西区井口のお寺の落慶法要を記録した映画です。」とのことです。
もう一本が、『土徳』
・・・これは、青原さんの父上の被爆体験を中心にしたドキュメンタリー作品です・・・と言っていいのかしら。
いや、詳しくは、やっぱり青原さんのHPの案内をごらんいただいたほうがいいですね。
http://dotoku.net/
以下、上記HP掲載の青原さんご自身による「あらすじ」をご紹介します。
〜〜〜〜〜〜〜
広島は古くから安芸門徒と呼ばれ、浄土真宗のお寺が多い地域である。映像作家・青原さとしは、真宗のお寺・真光寺に生まれ、少年時代からお寺社会に抵抗を感じていた。一方、戦後45年住職を勤めてきた父・淳信は、お寺の古い因習にこだわり続ける。戦前生まれと戦後生まれの親子の衝突。さとしは、ついに家を出る。
数年後、父が病に臥したことをきっかけに、さとしは、カメラを回し始めた。ふるさとの 映像による探索である。市井の人たちを訪ねながら、明らかにされていく父が育った時代のふるさと、原爆以前の広島。それは毛利氏以来、城郭都市として築かれた町だった。
それとともに明らかになる真光寺の戦前の姿。そして父・淳信は、そこをどのように生きてきたのか?物語は、家族5人を失った淳信の壮絶な原爆体験と戦後の復興へと展開する。父への問いかけの果てに答えてくれた土徳・地域の恩恵とは?
父の死と相前後し撮影された11年分のビデオ記録をもとに、個・家族・町の関係を問いつつ、現在から過去、ヒロシマから廣島、縦横無尽に飛翔する極私的歴史ドキュメンタリー!
この作品は、真光寺という我が家を焦点に据えた父と家族と私自身を描くパーソナル・ドキュメンタリーです。
しかし、私にとって「家」とは、すなわちお寺であり、地域社会・歴史・風土と密接に関わっている存在であります。「土徳」とは、そのことを端的に語ってくれる言葉であり、病床の父が、私の問いかけの果てに答えてくれた父の人生観でもあります。
郷土文化映画、個人映画、劇映画と様々な方法で盛りだくさんな要素を作品に詰め込んでいます。それは「土徳」という思想を探索するための映画であるからです。同時にそれは、「私」自身の探索の旅でもありました。
<青原さとし>
〜〜〜〜〜〜〜〜
2003年の作品ですが、昨年、英語版が完成し、アメリカでの上映会が開催され、今年もまた、ニューヨーク平和映画祭に参加した作品です。
どうころんでも松田聖子ちゃんっぽくはなれないけど♪
はてこさんの2010年1月12日のエントリ
◆身近な人からの性暴力やデートレイプ被害に気をつけてほしいタイプ別順位
http://d.hatena.ne.jp/kutabirehateko/20100112/1263297203
と
2010年1月14日のエントリ
◆性暴力被害に気をつけて欲しいタイプ別の解説
http://d.hatena.ne.jp/kutabirehateko/20100114/1263474034
を読んで、いろいろ考えていました。
はてこさんが書いている「松田聖子ちゃんタイプ」は、確かに身近な人からの性暴力やデートレイプ被害には遭いにくいだろうな、と思います。このポイントは「身近な人からの」という条件があるところ。
だって、なんからの「身内」の中であれば、基本的な関係性は潰したらまずいわけですから、「自分のイメージを落とさず、かつ相手の対面もそれなりに守りつつ自己主張できる」ことは重要です。
ただ、「相手を責めずに行為を拒絶できる人」は必ずしも松田聖子タイプだけじゃないですよね…というか、可愛らしくふるまうことだけじゃないはず、と思うんですよね。いや、聖子ちゃんが嫌いというのではなく、どうもそういうふうになっていない私はどうしたらいいんだろう、ということなんですけど。
はてこさんも1月14日のエントリでは、「相手の意図によらず、それはやめてね、とはっきり宣言できる人がとる対応の例」と書いてますし。
別に、「何するんですか!」とパシッと払いのけて「あらごめんなさい。つい反射的に叩いてしまって。」でも良いわけです。でも、それが「生意気な奴」に見える場合と、自然に納得できる場合と両方あると思うんですよね。
それは、「キャー!エッチ☆」パッシーン!という行動についても同様で、「聖子ちゃん」だったら「いや〜仕方ないなぁ」と思ってもらえても、人によっては、「ちっ!なんだよ、カマトトぶりやがって」という怒りを引き出してしまったり、「なんだ、意外に脈ありじゃん!」と相手の行動を強化してしまいかねない場合なんかもあるような気がします。はてこさんも、12日のエントリで、いろいろ警告も書いてます。
だから、重要なのは、「セリフ」や「態度」といった「行動パターン」そのものというよりは、危機察知センサーを鍛え、嫌なことはしっかり拒絶し、即座に安全確保の手段を講じること、というところなんでしょう。
ただ、この「聖子ちゃんタイプ」の対応は、現代日本の女性の振る舞いとしては、比較的安全で、かつ「世間」に受け入れられやすいパターンだろうとも思います。
なにしろ、渡辺淳一先生も週刊新潮12月5日号のコラム『あとの祭り 悲劇をなくするために』で、「からだはよわいが性格がきつい」女性に向けて「もうすこし曖昧にいくらかやさしく接して」「巧みに処して逃げて」とすすめていらっしゃるわけです。
好むと好まざると男性陣からの応援団をも得やすいでしょう。平均的には男性よりも体力*1に劣り、なにかしらの武術を身につけているわけでもない女性にとっては、有効な手段だと言えると思います。うまく使えたらね。
でも、「聖子ちゃんタイプ」の行動パターンがどうもしっくりこないのだったら、無理して自分を変えることを考えるよりも、自分らしい「危機回避」の技を磨くのがいいと思う。あ、「危機察知センサー」はもちろん磨いておかなくちゃならないけど。
「自分らしい」行動、って、要するに「自分の持ち味」「自分の強み」を自覚して、自信を持つことに尽きます。もちろん、「自分らしさ」って、「弱点」もたくさんあるはずなんですが、長所と短所は裏表。「弱点」だって視点を変えたら「強み」になることだって十分ありますからね。
亜弓さんには亜弓さんの、アスカにはアスカの、鳥居みゆきには鳥居みゆきの、北島マヤには北島マヤの、それぞれに合った「安全確保」のための「行動パターン」、自分に自信を持つことで、ことさら何かを主張するのではなくともおのずからでてくるがあるはず。
そんなことを考えながら、はてこさんの「タイプ分け」に、いろいろな漫画やアニメの女性キャラクターを当てはめてみて遊んでました。
一度、ハイクに『鋼の錬金術師』のキャラを妄想して分類してみたのを書いたのですが、はてこさんの「解説」を読んで、はてこさんの意図を理解しようと試みつつ、私の解釈を加えてもう一度当てはめなおしてみました。また、『有閑倶楽部』と『ハチミツとクローバー』、『名探偵コナン』でもやってみました。一つの作品世界のなかで、どんな立場の女性キャラがどんな行動パターンをとり、それはどこにあてはまるのか、やっていてなかなか楽しい遊びでした。
あてはめてみた漫画の女性キャラたちは、みな強〜い人たちです。主要登場人物が多いし、私はそういう女性キャラがやっぱり好きなんだと思う。そうそう「冗談めかして触る」なんてできなさそうな人も多いんですよ。それに、それぞれの漫画の主要男性キャラは、「性欲に支配されて」「一瞬にして獣」にはならないような人たちが多いですね。だからあくまでも「お遊び」なんですけど、だからこそ、それぞれのタイプに何か「強み」を見つけられたらなぁと思ったんですよね。
そういう遊びをしていて、「タイプ判定」に使われているそれぞれのセリフや行動を自分がどう解釈しているのかがわかってきておもしろかったです。あと、女性キャラにどういう思い入れを持ってみているのかということも。
「強み」の部分について、もうちょっとまとまったら、エントリにあげたいなと思っているんですが、なかなか・・・ort・・・・
渡辺翁の言う「男は獣」って生き物に対して失礼な気もする。だって言い訳じゃない?
↓12月12日に書いた記事、【「男は獣」から考えたこと】
http://d.hatena.ne.jp/yotayotaahiru/20091212/1260643855
の続きです。
「論争」が一応下火になっているところで、周回遅れではありますが、*1
「回天キューピー」の件でちょっとやりとりした tyokorataさんの記事、
【「男は獣だ」とはてなブロガーは叫んだ 一方海外では「日本は安全だ」と…】
↓
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20091224/1261638500
に、コメントをつけようと思ったのだけど、たぶん、例によって長くなるので、エントリをあげ、トラックバックを送ることにしました。
さて、本題に入る前に、この曽野綾子女史、渡辺淳一翁の発言をめぐる、
「はてな」での「論争」の中で大切だと私が思ったことをまず書いておきます。
まず、「論争」以前に忘れてはいけないことを一つ。
深刻な性暴力の被害を受けた人は、強いショックを受けています。
また、ほとんどの方が自責の念も強く持っていると考えてよいでしょう。
(追記:↑このように書く根拠は、私自身が出あって話を聞いた被害者の考え方や、本やネットに公表されている手記などにしばしば出てくる言葉から類推したことなのですが、この文の書き方には、私自身が無自覚に被害者と自分を切り分ける考え方をしていたことが反映していたと考えるに至りました。まだいろいろと迷いはありますし、十分に書き込めているとは思いませんが、下記の赤字の部分のように訂正させていただきます。)
また、性暴力は「魂の殺人」という言葉で説明されるように、被害を受けた方の「生きる力」「自分を信頼する力」「他者や世の中を信頼する力」を破壊します。「自分自身の価値」が貶められ、回復できないと考える場合も多いでしょう*2
その結果、やり場の無い怒りがさらに自分自身を責め立て傷つけることも非常にしばしばあるのです。
そのショックや自責の念は、直接の被害体験からだけでなく、被害にあったことそのものを責められたり、「何か落ち度があったのではないか」「合意だったのではないか」「誘惑したのではないか」と聞かれることからより強化されています。家族など親しい人に相談する時にも、警察に届けて事情聴取を受ける時にも、裁判のときにも。ときには「支援者」「カウンセラー」とのかかわりの中でさえも。(←この赤字部分、も追記です。) わかってもらえないばかりか、心無い一言で更に傷つき、孤立無援を感じ、無力感に苛まされ、そしてさらに自分を責めることになるのです。
ずたずたに引き裂かれた自尊感情を再建するのは容易なことではないです。
中には、かなり長い時間が経過した後でも、PTSDやうつ病に苦しみ、自分自身の経験ではない性暴力被害について聞いたり読んだりすることによっても、フラッシュバックが起こる場合もあります。フラッシュバックって、「強烈に思い出す」という以上のことだったりします。自分を責める気持ちがそのまま自傷行為、ときには自殺企図にまで至る場合もあり、実際に亡くなる方もいらっしゃいます。
たとえ、「性暴力被害防止」という善意の目的・意図があっても、「性暴力被害を防ぐには自衛が必要」という言説は、「性暴力被害者は『自衛』を怠った」というメッセージを持ってしまいます持ってしまいかねません。たとえ、そんなつもりがなくともです。そして、そのメッセージは、性暴力被害を受けた当事者には、世間一般、女性一般よりも、より強く伝わってしまいます。当事者への配慮をよほど注意深く書き込んでも傷つける場合はあると思います。ネット上で発言する場合、せめてその自覚を持っていきたいと考えます。(赤字部分は追記)*3
現実には「完全に自衛」することは不可能です。
それなりに「自衛」していても被害に遭う場合はあります。
というより、「自衛」していても被害に遭い、さらに「あなたには落ち度はなかったのか」と責め立てられた経験があるからこそ、性暴力被害者には、たとえ善意の「女性は自衛すべき論」であっても、「あなたはもっと自衛すべきだった、不注意だった、あなたには落ち度がある」という責めの言葉になって聞こえてしまうのです。 (←追記:ここもまた、不十分な考察による曖昧で迂闊な表現になっていると思い、下記赤字の文に訂正します。id:kutabirehatekoさん、トラックバックやその後の記事、いろいろありがとうね!)
というよりも、性暴力被害者が「自衛」していても被害に遭い、さらに「あなたには落ち度はなかったのか」と責め立てられた経験を持っているからこそ、たとえ大勢のまだ被害を受けていない人を対象にした「善意」の「女性は自衛すべき論」であっても、その文脈が実際の事件の被害者を引き合いに出して「ここが不注意だった」「ここが不足していた」というものであったり(曽野綾子女史、渡辺淳一翁の論)、被害者が存在することに対して無神経であって、一般論として「危なっかしく見える女性像」を念頭に置いて書かれている具体性を欠いた「自衛論」であったりすれば*4その言説がダメージを受けた被害者を追い詰める、特に、一番弱っている人を傷つけることになってしまうのではないかと危惧します。
まだ、十分に書ききれたとはいえないのですが、この間の「論争」において、「女性は自衛すべき論」に反論している人の中におられる、性暴力被害を受けた当事者の方が、何度も何度も書いているのは、一人で苦しんでいる性暴力被害者に向けて、「善意の忠告」がもたらす二次被害を軽減しようとしているのだと、私は理解しました。
tyokorataさんは、街で「危ない輩」に絡まれた災難に出会ったときのことを書いておられますし、その時のご自分の行動を「迂闊にも」と書いておられますし、つきまとわれたときの恐怖も書いておられます。性暴力ではなくとも、こういう自分の「怖い」経験をその時の気持ちも含めて書いていらっしゃるのはとてもいいと思います。
もしも、その「危ない輩」がいきなりナイフを突きつけてくるような通り魔で大怪我をしていたら、その「迂闊さ」をもっと悔やんでいたでしょうし、ご自身の体験から、性暴力被害者の自責の念についてはご理解いただけると思います。
前置きが長くなってしまいました。
でも、これを書いてからでないと、本論に入れません。
さて、本論です。tyokorataさんの記事について。
tyokorataさん、なかなか面白い視点も持っているのですけど、まずは、批判(というか苦情かしら…)からです。
記事のタイトルの
【「男は獣だ」とはてなブロガーは叫んだ 一方海外では「日本は安全だ」と…】
なんですけど…
この間の「論争」の中で、「フェミニスト」を名乗っていたり、名乗っていなかったりする「はてな」女性ブロガー、およびそこに賛同した男性ブロガーの中で、「『男は獣だ』と叫んだ」人はいないですよ。「男を去勢しろ」や「予防拘禁しろ」と言った人もいないですよ。
で、今回は「男は獣」について書きます。
「男は獣」という言葉は、もともと渡辺淳一翁が週刊新潮に書いた記事に出てくる言葉です。で、「獣は檻に」はこの渡辺翁のコラム記事に対してのフランチェス子さんの「反論」というか、皮肉を交えて「怒り」を表明したエントリのタイトルです。
私も前のエントリで紹介しているのですけど、
◆【獣は檻にいれとけというお話し】フランチェス子の日記 11月28日記事
http://d.hatena.ne.jp/Francesco3/20091128/1259427578
渡辺翁は、女性に対しては、機織りや編み物などの単調な仕事を続ける持続力があり、母親は子どもを泣き止むまで忍耐づよくなだめる力があり、という評価をして、
一方、男性については、
「男は忍耐力がなく、カッとなるとなにをしでかすかわからない。一瞬で獣になる生きものだ。」 と書いています。
問題なのは、渡辺翁は、リンゼイ・アン・ホーカーさん死体遺棄事件の市橋容疑者を引き合いにだし、若い娘や親に対しての忠告という文脈でこの「男は獣」という言葉を書いているということです。
〜〜〜〜〜〜〜〜
ここで若い娘にあらためていいたいのが、男と女のちがいである。男は忍耐力がなく、カッとなるとなにをしでかすかわからない。一瞬で獣になる生きものだ。一方、からだはよわいが性格はきついのが女。リンゼイさんには申し訳ないけれども、市橋に迫られたとき、もうすこしおだやかに断っていたなら。「ありがとう、でもわたしはまだそんな気になれません、またあとでゆっくりお話ししましょう」こんなふうに今後に余韻をのこしていれば。巧みに処して逃げていたなら。むろん100%市橋がわるい。しかし彼女がもうすこし曖昧に、いくらかやさしく接していれば、悲劇はおきなかったかもしれない。ともかく親は安全のため、こうした男の狂気やこわさを若い娘におしえておく必要がある。
※フランチェス子さんの記事に掲載されている
【週刊新潮12/3号/渡辺淳一連載コラム「あとの祭り」概要 「悲劇を失くするために】より引用
〜〜〜〜〜〜〜〜
これはかなり無茶な「自衛論」だと私は思います。
というより、
「男は獣」…衝動的で理性が働かなくなることがある…
↓
だから
「若い娘」は「からだはよわいが性格がきつい」のをそのまま出しては危険で、身の危険を感じたようなときには、「やんわりと」「余韻を残して」「巧に処して逃げる」ことを覚えておかなくてはならない。
というのは、忠告のように書いているけれども、実際には「わがままな要求」に過ぎないのではないかと、しかも、「忠告」としては、ほとんど役にたたないのじゃないかとも思うわけです。
その理由は、フランチェス子さんも書いているし、私も前の記事にも書きましたけど、もうちょっと丁寧に書きます。
「熱烈な片思い」でも「そのものずばりセックスが目的」でもいいのですが、「なんとか思いを遂げたい(前者なら恋愛成就の上でのセックス、後者だったらとにかくセックスできる)」と考えている時に、「曖昧に」「やんわりと」断られたとして、断られたと認識することってできます?
願望があったら自分に都合の良い解釈をしたくなると思うのですけど。*5
ましてや「余韻を残して」なんてことをしたら、特に「熱烈な片思い」だったら、はっきり断られるまで諦めがつかないでしょう。
例えば、デートの誘いを何度も「やんわりと断って」もあきらめてくれない人の誘いをどうしても断れなくなった時に、「やった!やっと思いが通じた!」と誤解されることだってある。「僕の気持ちをわかってついてきたんだろう」とか「嫌よ嫌よも好きのうち」とか解釈して行動化する場合だってあるでしょう。どこかできっぱり断らないとどうしようもない。私は早い方がいいと思うけどね。変に「余韻を持たせ」たりしないで。だって、なかなか断れないでいたことだって、「気をもたせてひっぱった女性が悪い」理屈はなりたってしまうと思うから。
「断る時には大勢人がいる安全なところで」、という「自衛策」もあるかな…いや、それはないよね。「大勢の前できっぱり振られる」ってプライドが傷つくし、その時は良くても、ストーカーになったり、あとをつけられたりすることだってあるし。
それでも、そんな「やんわり断る自衛策」ですら、言われるまでも無く考えて実行している女性は多いはずなんですよ。
そもそも、「男は獣」って男性が自分でそう言ってしまっていいの?
それって、自分で自分をバカにしていることにはならないの?
だって、普通は皆、衝動を抑えて社会生活を営んでいるわけでしょ??
なぜ、「男は獣」って男性が自分自身のことを言ってしまえるんだろう。
そう言ってしまうことで、自分自身の行動の責任を軽くしたいのではないの?
性衝動や「本能」はただの言い訳なんじゃないの?
そういう疑問がふつふつと沸いて来るんです。
私は男性の性衝動…自分の意思とはうらはらに勃起してしまうことがあるということ、射精することでその落ち着かない状態を解消したいという欲求は、女性が(少なくとも私が)感じる性衝動とはちょっと違うだろうな、とは思っています。
でも、渡辺翁が「男は獣」と書いている文脈は、そういう性衝動の問題とはだいぶ違うと思う。
「・・・・と厳しく断られた。」
「それでついカッとして衝動的に抱きつき・・・」
「さらに抵抗され、はげしく揉みあい争ううちに、」
「憎悪が膨らみおもわず首をしめてしまった」
という渡辺翁が想像している市橋容疑者の行動のプロセス(←あくまでも「推測」「想像」*6)を「男は一瞬で獣になる生き物だ」というならば、それは「性衝動」というよりは、当然得られるはずのもの(と決めてかかっている)を得ることができないことへの失望を、「くれていいはずのものをくれない女性が悪い」ことに責任転嫁して、怒りに基づく暴力を向けたということじゃないだろうか。
ものすごく幼いけど、獣では決してない。
人間の考えることでしょう。
あ、なんか『からくりサーカス』(藤田和日郎)の白金を思い出した。
wikipedia:からくりサーカスとwikipedia:からくりサーカスの登場人物を参照のこと。
[rakuten:surugaya-a-too:10146655:detail]
「男は一瞬で獣になる生き物」
渡辺翁の文意をよく解釈すれば、市橋容疑者を特別な変な人、というふうには見ないで、自分と地続きの存在としてとらえ、自分自身の中にもある「危うさ」を表現しているともいえるかな、とは考えました。
それはそれで、一つの重要な自覚だろうとも思うのだけど、でも、その「危うさ」に対処するのは被害を受けた、あるいはこれから受けるかもしれない女性に求めるべきものなのかといえば、私はやっぱり違うと思います。
それって、要するに「男は獣だから女は猛獣使いになりなさい」と言っているようなものでしょう?
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渡辺翁の「もしリンゼイさんが・・・」という文章は、失敗して獣に殺された猛獣使いは「猛獣つかいとして力量が不足していた」と言っているようなものだと思います。
「猛獣使い」になろうと思ったわけじゃない、ただ、その役割を押し付けられているだけなのに。
それは無茶な言い分でしょ?
甘えるのも大概にして欲しい。
それより、自覚があるならその「一瞬で獣になる」部分をなんとか自力で治めてくださいよ、と言いたいです。
それをどうしても「生物学的な性差」に基づく「性衝動」「本能」のたまもので、どうしようもないもの、としてしか認識できないのであったら*7、
すべての女性を猛獣使いにするよりは、「獣は檻」の方が現実的でしょう。
でも、本当は、「一瞬で獣になる」はだいぶごまかしが入っているのじゃありませんか?と思うわけです。
まぁ、前の記事で書いたように、渡辺翁に関しては、もうそういう「自分が偉くて当たり前」の環境で生きてきたおじい様なので、『からくりサーカス』の白金みたいなわがままな自意識を今さら変えるのは無理だろうと思います。
本当は「獣」じゃないんでしょ?
だから「獣は檻」といわれたら腹が立つのではないですか?
でも、それだったら、「獣は檻」発言の手前側の「男は獣」について、反論していただけるとありがたいと思います。
発情期という特別な期間がなくなってしまったホモ・サピエンスの、さらに、文明社会の中で、それなりの社会的ルールを作って、それを守って社会を維持しているわけだから。その社会的な存在であることのプライドは大切にして欲しいです。
さて、ここまでで、tyokorataさんのエントリのタイトル部分前半についての「批判」はおしまいです。タイトル後半には特に異論はありません。
曽野綾子女史の文章との関連については、長くなっちゃったので、いずれまた。今日はここまでにします。
◆余談の追記◆
内なる獣を檻に閉じ込めるって、
九尾を封印されたNARUTOみたいだよね、ってふと思いついた。
九尾に支配されるとどうにもならなくなって大切な人をも傷つけてしまう、
だから檻に入れて鍵をかけているけれど、
NARUTOが九尾をコントロールできるほど「成長」したら、
そのエネルギーを使って大活躍できるってことでしょ。
必要なのは「修行」だったりして。
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◆真面目な追記 2010年1月7日◆
コメントのやりとりやいただいたトラックバック、たくさんのブコメをいただいたことから、まだぐずぐずと考えています。ネット上の文章が断片で読まれるということも踏まえて、元の文章の一部を打ち消し線で消し、現時点で考えられる範囲での語句変更、書き換えを赤字で追記しました。
いろいろなご意見ありがとうございます。
とくにid:masudamiさん、まだ十分なお返事にはなっていませんけれど、とりあえずのお返事、被害体験のない私が、「被害者にとっての」性犯罪・性暴力被害の体験をどのようなものとして考えているかについて、追記の形で書き込みました。「その自責の念に駆られる被害者像自体、被害者に対するヨクアツだよね」については、後日別エントリで書いていきたいと思います。これ、私にとって正直なところ「痛い」問題なのですが、「逃げちゃいけない」「逃げられない」問題なので、たぶん、この先もずっと考え続けると思います。Special Thanks!
*1:何周遅れなんだろ、ってくらいのところですね…
*2:その考えの背景には当然、内面化された「性差別的」な価値観があるとは思います。でも、自分が生きている社会の価値観から自由であることは簡単なことではありません。日本のウーマンリブの中心人物だった田中美津さんだって、ご自身の性的虐待について、その被害を受けた自分をそのまま受け止めることができるようになるまで、とても長い時間が必要だったことを書いておられます。参考:田中美津著「いのちのイメージトレーニング」筑摩書房1996年 新潮文庫版あり。「いのちの女たちへ〜取り乱しウーマン・リブ論」河出文庫版の文庫版へのあとがきなど参照のこと
*3:後だしジャンケンみたいでごめんなさい。でも、「議論」が前向きの方向になるには、随時訂正はあっていいはずです。
*4:あくまでもこれはその「自衛論」を書いている人にとって「そのように見える」女性像一般を対象としているために具体性を欠く
*5:これ、男女関係なく。
*6:2009年12月24日の東京新聞朝刊に、「市橋容疑者『騒がれ複数回 首絞めた』殺意は否認」http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009122402000057.htmlというニュースが掲載されました。「殺意は否認」しているそうですが、10数時間の間をおいて2回首を絞めたことを供述しているようです。
*7:「仮定法」使用。現実がそうだと言っているわけじゃないですよ