「社会貢献活動」推奨に感じるちょっとした懸念

前の記事、
↓【「社会貢献活動」って何?!】
http://d.hatena.ne.jp/yotayotaahiru/20101025/1288019642
のだいぶ遅れた続きです。しかもちょっとインスタントなのをお許しください。
もっと


あの記事を書いたあと、例のYOMIURI ON LINEの記事を、
「無利子貸与奨学金を受けるためには『社会貢献活動』をしなくてはならない」
という読み取りは誤読であって、「社会貢献活動」は在学中の義務ではなくて、成績以外に「無利子貸与奨学金」を受けるためのオプションだ、という話がありました。たしかにそう読めば読み取ることはできます。
 そそっかしい自分の読解は反省してます。

 でも、冷静になったうえで、もうちょっと考えてみました。
 文部科学省が「社会貢献活動」というものを無利子貸与の奨学金や大学への補助金という形で経済誘導しようとしている、ということにはかわりないと思います。パラパラと情報がでてくるのは・・・各報道機関の取材のたまもの・・・なのかしらね・・・

 
 ただ、何をもって「社会貢献活動」というのか、それは明らかではないし、逆に言えば、メニューを提案していくのは補助金を申請する各大学でしょう。授業とリンクした活動がでてくる可能性も大きい・・地域の活性化とか子どもを対象にしたワークショップとか、「社会貢献活動」がそのまま大学生の学びを深め単位になるのだったら、そしてそれが大学院を志す際の無利子奨学金を獲得する上で役に立つのだったら、それはそれで一つのあり方として認めた上で、さまざまな提案を認めさせていくということも大切になるだろうと思います。でも、基礎研究の領域はやっぱり不利になるような気がする。志す学生が減ってしまうかもしれないです。

 
 その上で、やっぱり気になるのは、前の記事で書ききれなかった、
(4)「社会貢献活動」の美名のもとに社会の不採算部門をボランティアばかりで埋めようとしないで欲しい です。
 
 
まずは、有村さんのブログ記事に書かせていただいたコメントの再掲

http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20101022/1287712210
【ビジネスから10000光年 文科省は社会貢献活動をなめるな(ブログ版)】

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文科省の主張は「社会還元の意識を根付かせたい」という精神論。ダメすぎる。

に、基本的に賛成。
ただ、有村さんも注2で書かれているように、「役にたつ」かどうかが問題ではないです。
私なんかはこの記事で読み取れる内容については批判的立場をとりますが、実際に制度ができて動き始めたら「使えるものはなんでも使う」立場に立つでしょう。「役に立つ」ものを拾い出せば拾えないことはない・・・いろいろ手間はかかるでしょうけれども・・・

 私が、こういう「社会貢献のススメ(もしくは強制)」がいやらしいと感じるのは、「社会貢献」と呼び「無償の(あるいは低額な有償の)ボランティア」を前面にだすことで、収益の難しい部門を「やりがい搾取」で埋めようとする意図を感じるからです。収益をあげるのが難しい、賃金が上げられない、人が集まらない、そこに公費負担を増やして賃金水準をあげる、のではなくて、センチメンタルな精神論で費用を抑制する。

 学生時代に強制された中途半端な「社会貢献」なるものの経験をするより、介護にしろ、貧困家庭の子どもたちの学習支援にしろ、援農にしろ、放置された山林整備にしろ、わかりやすい「社会貢献」の不採算部門が一人前に食べていける労働条件のちゃんとした仕事になっていたらいいのに、と思います。自分の生活の安定があってこその「社会貢献」ですよね。
 「役に立つ喜び」に「ちゃんとした収入」がセットになっていたら強制されなくても意欲はわきます。その上でなら余暇時間の活用として「楽しいボランティア」ができるでしょう。自分の生活のゆとりなくして「社会還元」はありえない。「情熱」だけで走るのは長続きしませんもの。

 つづいて、HitTheSupportersBullさんのブログ記事に書かせていただいたコメントの再掲。

http://d.hatena.ne.jp/HitTheSupportersBull/20101108/1289208568
【Irony Fool わたしの話からみんなの話につなげたいのだけどうまくいかない】
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 こんばんは。よたよたあひるです。
トラックバックありがとうございました。
お気持ちはわかる、と思ってます。
確かに、人は自分の興味関心のあるものを追っていきますから、どんなに近くにある場所であっても、あるいはごくごく身近にいる人のことであっても、見たくないものは見えないし、知ろうともしない、気が付くことも無い、ということはありますよね。
それから、入所施設(私も以前は重度の障害者施設にいたことがあります)の利用者が、外からの風、お客様を楽しみにするのもわかります。 
だから施設がボランティアを積極的に受け入れる意義は、ボランティアをする人にも施設の利用者にも利益がある、ということは痛いほどわかるのです。身体介護そのものの役に立つかどうかということではなくて、外の人が足を運んでくれていつもと違う何かがある、ということだけでも活気がでる、ということの大切さですよね。 
その上で、もうちょっと言いたいなと思ったことを書きます。
(自分のブログの続きがまだ書けないので)
私は、ボランティアが生きるのは、ボランティアをする人も受け入れる側も「ゆとり」があるときだと思っています。例えば「職員は忙しいから十分に話し相手になれない、だからボランティアさんがきてくれるとありがたい」というのは、切実なことではあるのですが、どこか転倒している。要介護度が高い利用者が多い施設ほど、ADL介護に手一杯になるのは仕方ないことなのですが、ADL介護の部分にだってコミュニケーションをとりながらの気持ちのゆとりが欲しい。栄養補給や清潔保持のためだけじゃなくて、「人」と「人」の関係の中で介護できるようにな職場環境が当たり前になって欲しいです。
そして、ボランティアをする人も、「必死にボランティアをする」「奉仕の精神でボランティアをする」のではなくて楽しんで欲しいと思います。ボランティアをする人が楽しめるボランティアになるようにするには、受け入れ側にもゆとりが必要だし、ボランティアをする人にも時間的・経済的ゆとりは必要。でも、なんだかそのあたりがゆがんでいることが多くなってきた気がしています。

 
 子どもの養育や介護施設などは、しばしば「ボランティア活動」の舞台になります。大抵は利用者のQOL(クオリティオブライフ)の向上、簡単に言ってしまうと、利用者にとって何か楽しいこと、ADL介護・・・日常生活のお世話だけではなくて、生活に潤いを持たせる何か、をボランティアさんが提供してくれることが多いです。でも、どうしても人手が足らない場所だと、専従職員以外に、利用者の家族がボランティアとして施設の活動を支えていく場合があります。養護学校の卒後対策とか精神病院を退院する人の日中の活動場所として家族会が設立・運営する作業所とかグループホームなんかは施設活動の重要な部分を、利用者の家族を含むボランティアが担っている場合があります。喫茶店やリサイクルショップの運営をしている場合に、そのお店の運営を専従職員(常勤+パート)と利用者だけではまかないきれず、家族や知人や何かのきっかけで参加するようになったボランティアスタッフが活躍していたりします。
 無償のボランティア活動と賃労働による援助・支援サービス提供がまったく競合しないものであるならば問題にはならない・・・でしょうけれど、競合する場合は、賃金水準が下がる要因になります。そして、やっかいなのは、保育サービスや介護サービスを必要とする人は必要とするサービスを購入しようとしても、そこにかかる人件費を全部個人で(あるいは当該世帯で)負担することができない状況にある(場合が圧倒的に多い)、つまり何らかの公費投入は避けられないというわけ。そして公費の投入もまた制限されている(・・・当たり前のことですが)ので、「安く質の良いサービスの提供」はとても大切です。でも、結局のところ、人件費が最大の支出なわけで、「安く質のよいサービス」を提供するには、運営団体の取り分を減らすか、人件費を抑制するしかない。効率化は限界があるから。というか、「より効率よく」働くということは、ブラック企業状態に陥りかねないんですよね。

 一方の解決方法として注目されていたのは、非営利団体の活動なんですが、いかに非営利団体であっても、人件費をそうそう削減するわけにはいかない。それを職業として食べていくことができるだけの賃金を提供していくことが難しい場合、やっぱり別に食べていく手段がある人が補助的な収入を得るための場所にしかなり得なかったりする。あるいは若いうちには職員として働いても、結婚や子どもを持つようになると他の仕事を探してやめていったりする。ある程度規模の大きい、医療法人や社会福祉法人(お給料の水準は一応保証されている)の場合、賃金水準を下げないために労働時間の条件が犠牲になることもある。
 そういう状態をなんとか変えていかなくちゃだめでしょう。

 
 また、運営団体が「良心的」で「利用者のためになんとかしたい」と思えば思うほど無償のボランティアの活動と賃労働の職員の活動の内容を「外から見た場合に」区別するのが難しくなるということもあります。いや、内部にいても区別は難しい場合もある。
 「差」はあるんですよ。責任の重さ、という差が。
 
 これが難しいのは一方でボランティアスタッフがいて、他方に賃労働職員がいて、共同で仕事を進めていくときに、「私はボランティアでやっているのにお給料をもらっている人はもっと働いてくれてもいいはず」という期待がでてきてしまうことというのもあります。生活共同組合の専従賃金職員と組合員や、PTAの先生と保護者の関係の難しさなんかも似ているかもしれません(PTA活動自体は、先生もまたボランティア、なんですけどね・・・活動場所が学校の行事だったりすると軋轢が大変だったり・・・)。



またまた中途半端だけれど、とりあえずupしておきます。