「社会貢献活動」って何?!

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101021-00000027-yom-soci

↑【奨学金の条件「社会貢献活動への参加」追加へ】

読売新聞 10月21日配信記事

についての有村悠さんの記事にブクマしたらIDコールをいただきました。

↓有村さんの記事

http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20101022/1287712210

【ビジネスから10000光年 文科省は社会貢献活動をなめるな(ブログ版)】

 

 有村さんのIDコールは、「わかりやすい社会貢献の場」と目される、「福祉」の現場にいるよたよたあひるに意見を聞いてみたかったのでは、と思うのだけど、この件に関しては、いくつか言いたいことがあるので、なんとかまとめて自分のブログエントリにしてトラックバックをお送りすることにしました。

 記事を書くきっかけをいただいて感謝してます。有村さんありがとう!




 さて、書きたいことは以下の3つ。それぞれを小見出しにします。

(1)「社会貢献活動(≒奉仕活動)の強制」という問題

(2)何が「社会貢献活動」なのか、それを誰が決めるのか

(3)「学業」も「社会貢献活動」だし、「バイト」だって、「社会還元をする」基本を学ぶわけだし。

(4)「社会貢献活動」の美名のもとに社会の不採算部門をボランティアばかりで埋めようとしないで欲しい

このうち、(4)はもうちょっと整理してから、改めて書きます。(1)から(3)をまずUPしておこうと思います。

では本文です。長文失礼します。


(1)「社会貢献活動(≒奉仕活動)の強制」という問題
 最初、ニュースの見出しだけ見たときは、てっきり看護師確保対策として出されている奨学金の返済免除お礼奉公みたいなものかと思いました。

 「お礼奉公」については下のURL参照のこと。

 http://www.asahi-net.or.jp/~zi3h-kwrz/law2roore.html

 いや、「お礼奉公」はそれはそれでいろいろと問題をはらんでいるところもありますが、少なくとも、看護学校卒業後の就職先があり、就職してからは「ただ働き」というわけではないのですから、卒業後になんらかのボランティアを義務付けられるのは「お礼奉公」よりひどい話・・・と思って、ニュース記事本文を読んでみたら、在学中になんらかの「社会貢献活動」をしなくちゃならない、ってことみたいですよね。それで、「公費で学ぶ学生に社会還元の意識を根付かせたいとしている」とのことですから。

 それから、「社会貢献活動の場の提供に積極的な大学にも補助金などを上乗せする方針。」ということも書いてある。

 この話の何が一番嫌かというと、「社会貢献(≒奉仕)の強制」(←ものすごい矛盾)というところで、これは、東京都の高校や中学校に取り入れられた「奉仕」のカリキュラムに対する嫌な感じと同じなんだけど、さらにそれを大学、専門学校、大学院の学生に対して「教育」の名のもとにやろうとしていることです。さらに、その手始めに無利子貸与の奨学金受給者に目をつけたことも、ものすごく嫌らしい。

 「強制」に否と言えない、世論からもある程度、賛成を得やすいそういう層を対象にはじめようというところが嫌らしい。 学校に補助金を上乗せ、というのは経済誘導ですよね。

 学習指導要領でしばることができない大学や大学院や専門学校に「場」の提供、学生への利用の推奨をさせるわけ。そういう事務を始めたら維持するために、「無利子貸与の奨学金受給者」だけではなくて、広く全学生を対象にしていくことは目に見えている。「公費で学ぶ学生」という定義は、公費の補助金がでているということで言えば全学生ということになりますよね。無利子貸与奨学金の受給者が、まず目立つだけで。

 

 いや、昨今の学生、そしてもっと広く若者に、「公共心が薄い」とか「社会貢献の意欲が無い」とか「わがまま、自分勝手」とか「自分中心」とか「仕事が続かない」とか、そういう批判を呼び起こすようなエピソードがあるのも確かですが、でも、若者・・・だけじゃなくて人間、と言ったほうがいいかもしれない・・・は、「置かれた立場」で変わるものです。

 あらかじめセレクトされた選択肢の中だけの自主活動(活動そのものは強制されているから)を行わなくてはならないというのは、行動に責任を持つ主体である、そういう立場に置かれることなく、「これを上位の存在に言われた義務としてやっておかなくてはならない」状態に置かれるということ。若者を「子どもの立場」に留めておき、イエスマンを育成する方法ですよね。

 もはや、20歳前後の若者は「お子様」であり、大学はおろか大学院にも「自治」も「自主運営」もありえない、というそういうことですか。

 今の学生、若者を育ててきたのは、今の日本の社会、今の大人です。今の社会でリーダーシップをとっている40代、50代の育ってきた時代は、「ゆとり教育」以前、「70年代中教審答申 期待される人間像」の理念を持つ学習指導要領の教育を受けてきた世代です。

 ↓「期待される人間像」の全文

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/chuuou/toushin/661001.htm

 この昭和38年に出された答申の中にも、「社会人として」「仕事に打ち込むこと」「社会福祉に寄与すること」や「社会規範を重んずること」、「国民として」「正しい愛国心を持つこと」「象徴に敬愛の念を持つこと」などなど、かつての「教育再生会議」がとっても喜びそうな文章もならんでいたんですけれどね。それでも今の日本の若者を「公共心が薄くて、社会還元の意識が根付いていない」人間に育ててきてしまった、その原因はどこにあるんでしょうか。日教組が悪い、で済む話じゃないですよ。まったく。

(2)何が「社会貢献活動」なのか、それを誰が決めるのか

 無利子奨学金を受給する学生に、「社会貢献活動」を義務づけるということは、実際にやったかどうかをなんらかの形でチェックするということになりますよね。

 「社会貢献活動」が、「社会のためになる」あるいは「社会を良くするために行う」活動、とするのなら、社会福祉施設の体験ボランティアやら水源保全のための森林整備とかオーガニック野菜の共同購入やらそのための援農やら街をきれいにするためにごみをひろう活動やら各種募金活動やらばかりではなく、問題提起のために学習会や講演会を開くこと、何かを訴えたくてドキュメンタリーやフィクションの作品をつくることだって、「社会貢献活動」だろうし、もっと言ってしまえば、主観的には、政治的な集会やデモ、信仰する宗教の布教、まで、幅広くいろいろな「活動」が考えられます。

 さて、想定されているのは、いったいどんな「社会貢献活動」なんでしょうか。

 例えばシーシェパードの活動に参加しました、をカウントはしないでしょうし、左右を問わず政治性が高い団体のデモに参加したり署名活動やビラ配りや募金活動をしたところでカウントはされないだろうと思いますし、赤い羽根共同募金の街頭募金を行うことや、市民祭で「社会を明るくする運動」のパレードに参加して宣伝のチラシを配ることはカウントされそうな気がします。自分が生協に加盟して無農薬野菜を購入することはカウントされないだろうと思いますが、その生産者支援のための援農活動なら、場合によってはカウントされるかもしれません。派遣村運営ボランティアはどうでしょう。学園祭の実行委員はカウントされるかしら。学会の事務局を手伝うことはどうでしょうか。何も団体がバックについていない単身生活をする身体障害者の介護に入ることはどうなんでしょうか。社会福祉法人NPO団体が主催する活動、たとえば、識字教室や日本語教室でボランティアをすることや不登校の中学生や貧困家庭児童生徒、高校中退者への学習支援活動やキャンプのボランティアをするのはカウントされそうですが、バイトで補習塾の講師をしたり、ネットで知り合って仲良くなった人がたまたま障害者で一人では出かけられないから、共通の趣味の映画(ジブリでもダブルオーでもいいんですけど)に一緒に行って欲しい、なんて場合はカウントできない気がします。

 いや、新聞記事にはまだ何も具体的なことは書かれていませんから、このあたりは私の妄想炸裂状態なんですけど。

 行政は「中立」と「公平」を志向しますから、「特定の思想・政治性」を持つ団体はなるべく排除したいでしょうし(かといってまったく色のない団体なんてないでしょ)、個人的な営みや営利に関わるものは「社会貢献活動」とみなさないのじゃないかしら。

 公のお墨付きの「社会貢献活動」とそうでない「社会貢献活動」があからさまになるんじゃなかろうか、という懸念を持ちます。

 「社会貢献活動の場の提供に積極的な大学にも補助金などを上乗せする方針。」ということは、学校が学生の「社会貢献活動の場」の提供をすることもあるわけですよね。で、それを補助金査定のために文科省がチェックする。公のお墨付きの「社会貢献活動」リストができてくるってことじゃないですか?

(3)「学業」も「社会貢献活動」だし、「バイト」だって、「社会還元をする」基本を学ぶわけだし。
 (2)のところで、「わたしがかんがえた社会貢献活動(妄想編)」をいろいろと書き連ねましたけれども、学生の本分である「学業」や「研究」やだって「社会貢献活動」ですし、バイトだって「社会還元をする」基本を学びます。

 まずはちゃんと本分である学業のほうに力をさくことができる環境をつくるのが先でしょう。

 「奨学金を返済しない人」、返済猶予せざるを得ない人は、要するに返済できる収入が得られないということですよね。「職」がまったく無いというわけではなくて、単に「わがまま」なだけという人もいるのかしら。でも、無理な働き方をして身体を壊したり精神を病んだりする人だって多いわけで、「社会貢献」の意欲がないから、という精神論ではすまされない。

 そして、社会が必要としている仕事があって、そこに人手が足らないのなら、きちんとしたお給料を払って雇用する仕組みをなんとか作るしかないはず、じゃないですか。お金が回れば雇用になるところを、無償の「奉仕」でまかなおうというのはどこかおかしい。

 不採算部門を外部化しておけば、経済活動の外側でなんとかなる、わけじゃないんですよね。