渡辺翁の言う「男は獣」って生き物に対して失礼な気もする。だって言い訳じゃない?

↓12月12日に書いた記事、【「男は獣」から考えたこと】
http://d.hatena.ne.jp/yotayotaahiru/20091212/1260643855

の続きです。



「論争」が一応下火になっているところで、周回遅れではありますが、*1
「回天キューピー」の件でちょっとやりとりした tyokorataさんの記事、
【「男は獣だ」とはてなブロガーは叫んだ 一方海外では「日本は安全だ」と…】

http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20091224/1261638500

に、コメントをつけようと思ったのだけど、たぶん、例によって長くなるので、エントリをあげ、トラックバックを送ることにしました。



 さて、本題に入る前に、この曽野綾子女史、渡辺淳一翁の発言をめぐる、
はてな」での「論争」の中で大切だと私が思ったことをまず書いておきます。


まず、「論争」以前に忘れてはいけないことを一つ。


 深刻な性暴力の被害を受けた人は、強いショックを受けています。
 また、ほとんどの方が自責の念も強く持っていると考えてよいでしょう。

(追記:↑このように書く根拠は、私自身が出あって話を聞いた被害者の考え方や、本やネットに公表されている手記などにしばしば出てくる言葉から類推したことなのですが、この文の書き方には、私自身が無自覚に被害者と自分を切り分ける考え方をしていたことが反映していたと考えるに至りました。まだいろいろと迷いはありますし、十分に書き込めているとは思いませんが、下記の赤字の部分のように訂正させていただきます。)
 また、性暴力は「魂の殺人」という言葉で説明されるように、被害を受けた方の「生きる力」「自分を信頼する力」「他者や世の中を信頼する力」を破壊します。「自分自身の価値」が貶められ、回復できないと考える場合も多いでしょう*2
 その結果、やり場の無い怒りがさらに自分自身を責め立て傷つけることも非常にしばしばあるのです。

 そのショックや自責の念は、直接の被害体験からだけでなく、被害にあったことそのものを責められたり、「何か落ち度があったのではないか」「合意だったのではないか」「誘惑したのではないか」と聞かれることからより強化されています。家族など親しい人に相談する時にも、警察に届けて事情聴取を受ける時にも、裁判のときにも。ときには「支援者」「カウンセラー」とのかかわりの中でさえも。(←この赤字部分、も追記です。) わかってもらえないばかりか、心無い一言で更に傷つき、孤立無援を感じ、無力感に苛まされ、そしてさらに自分を責めることになるのです。
 ずたずたに引き裂かれた自尊感情を再建するのは容易なことではないです。
 

 中には、かなり長い時間が経過した後でも、PTSDうつ病に苦しみ、自分自身の経験ではない性暴力被害について聞いたり読んだりすることによっても、フラッシュバックが起こる場合もあります。フラッシュバックって、「強烈に思い出す」という以上のことだったりします。自分を責める気持ちがそのまま自傷行為、ときには自殺企図にまで至る場合もあり、実際に亡くなる方もいらっしゃいます。


 たとえ、「性暴力被害防止」という善意の目的・意図があっても、「性暴力被害を防ぐには自衛が必要」という言説は、「性暴力被害者は『自衛』を怠った」というメッセージを持ってしまいます持ってしまいかねません。たとえ、そんなつもりがなくともです。そして、そのメッセージは、性暴力被害を受けた当事者には、世間一般、女性一般よりも、より強く伝わってしまいます。当事者への配慮をよほど注意深く書き込んでも傷つける場合はあると思います。ネット上で発言する場合、せめてその自覚を持っていきたいと考えます。(赤字部分は追記)*3
 現実には「完全に自衛」することは不可能です。
 それなりに「自衛」していても被害に遭う場合はあります。
 というより、「自衛」していても被害に遭い、さらに「あなたには落ち度はなかったのか」と責め立てられた経験があるからこそ、性暴力被害者には、たとえ善意の「女性は自衛すべき論」であっても、「あなたはもっと自衛すべきだった、不注意だった、あなたには落ち度がある」という責めの言葉になって聞こえてしまうのです。 (←追記:ここもまた、不十分な考察による曖昧で迂闊な表現になっていると思い、下記赤字の文に訂正します。id:kutabirehatekoさん、トラックバックやその後の記事、いろいろありがとうね!) 
 というよりも、性暴力被害者が「自衛」していても被害に遭い、さらに「あなたには落ち度はなかったのか」と責め立てられた経験を持っているからこそ、たとえ大勢のまだ被害を受けていない人を対象にした「善意」の「女性は自衛すべき論」であっても、その文脈が実際の事件の被害者を引き合いに出して「ここが不注意だった」「ここが不足していた」というものであったり(曽野綾子女史、渡辺淳一翁の論)、被害者が存在することに対して無神経であって、一般論として「危なっかしく見える女性像」を念頭に置いて書かれている具体性を欠いた「自衛論」であったりすれば*4その言説がダメージを受けた被害者を追い詰める、特に、一番弱っている人を傷つけることになってしまうのではないかと危惧します。
 まだ、十分に書ききれたとはいえないのですが、この間の「論争」において、「女性は自衛すべき論」に反論している人の中におられる、性暴力被害を受けた当事者の方が、何度も何度も書いているのは、一人で苦しんでいる性暴力被害者に向けて、「善意の忠告」がもたらす二次被害を軽減しようとしているのだと、私は理解しました。






 tyokorataさんは、街で「危ない輩」に絡まれた災難に出会ったときのことを書いておられますし、その時のご自分の行動を「迂闊にも」と書いておられますし、つきまとわれたときの恐怖も書いておられます。性暴力ではなくとも、こういう自分の「怖い」経験をその時の気持ちも含めて書いていらっしゃるのはとてもいいと思います。
 もしも、その「危ない輩」がいきなりナイフを突きつけてくるような通り魔で大怪我をしていたら、その「迂闊さ」をもっと悔やんでいたでしょうし、ご自身の体験から、性暴力被害者の自責の念についてはご理解いただけると思います。
 


 前置きが長くなってしまいました。
 でも、これを書いてからでないと、本論に入れません。
 さて、本論です。tyokorataさんの記事について。
 tyokorataさん、なかなか面白い視点も持っているのですけど、まずは、批判(というか苦情かしら…)からです。



 記事のタイトルの
【「男は獣だ」とはてなブロガーは叫んだ 一方海外では「日本は安全だ」と…】
なんですけど…


 この間の「論争」の中で、「フェミニスト」を名乗っていたり、名乗っていなかったりする「はてな」女性ブロガー、およびそこに賛同した男性ブロガーの中で、「『男は獣だ』と叫んだ」人はいないですよ。「男を去勢しろ」や「予防拘禁しろ」と言った人もいないですよ。
 で、今回は「男は獣」について書きます。


 「男は獣」という言葉は、もともと渡辺淳一翁が週刊新潮に書いた記事に出てくる言葉です。で、「獣は檻に」はこの渡辺翁のコラム記事に対してのフランチェス子さんの「反論」というか、皮肉を交えて「怒り」を表明したエントリのタイトルです。
 私も前のエントリで紹介しているのですけど、
◆【獣は檻にいれとけというお話し】フランチェス子の日記 11月28日記事 
 http://d.hatena.ne.jp/Francesco3/20091128/1259427578


 渡辺翁は、女性に対しては、機織りや編み物などの単調な仕事を続ける持続力があり、母親は子どもを泣き止むまで忍耐づよくなだめる力があり、という評価をして、
 一方、男性については、
 「男は忍耐力がなく、カッとなるとなにをしでかすかわからない。一瞬で獣になる生きものだ。」 と書いています。
 
 問題なのは、渡辺翁は、リンゼイ・アン・ホーカーさん死体遺棄事件の市橋容疑者を引き合いにだし、若い娘や親に対しての忠告という文脈でこの「男は獣」という言葉を書いているということです。
〜〜〜〜〜〜〜〜
 ここで若い娘にあらためていいたいのが、男と女のちがいである。男は忍耐力がなく、カッとなるとなにをしでかすかわからない。一瞬で獣になる生きものだ。一方、からだはよわいが性格はきついのが女。リンゼイさんには申し訳ないけれども、市橋に迫られたとき、もうすこしおだやかに断っていたなら。「ありがとう、でもわたしはまだそんな気になれません、またあとでゆっくりお話ししましょう」こんなふうに今後に余韻をのこしていれば。巧みに処して逃げていたなら。むろん100%市橋がわるい。しかし彼女がもうすこし曖昧に、いくらかやさしく接していれば、悲劇はおきなかったかもしれない。ともかく親は安全のため、こうした男の狂気やこわさを若い娘におしえておく必要がある。

※フランチェス子さんの記事に掲載されている
週刊新潮12/3号/渡辺淳一連載コラム「あとの祭り」概要 「悲劇を失くするために】より引用
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 これはかなり無茶な「自衛論」だと私は思います。
 というより、


 「男は獣」…衝動的で理性が働かなくなることがある…
  ↓
 だから
 「若い娘」は「からだはよわいが性格がきつい」のをそのまま出しては危険で、身の危険を感じたようなときには、「やんわりと」「余韻を残して」「巧に処して逃げる」ことを覚えておかなくてはならない。


 というのは、忠告のように書いているけれども、実際には「わがままな要求」に過ぎないのではないかと、しかも、「忠告」としては、ほとんど役にたたないのじゃないかとも思うわけです。
 その理由は、フランチェス子さんも書いているし、私も前の記事にも書きましたけど、もうちょっと丁寧に書きます。


 「熱烈な片思い」でも「そのものずばりセックスが目的」でもいいのですが、「なんとか思いを遂げたい(前者なら恋愛成就の上でのセックス、後者だったらとにかくセックスできる)」と考えている時に、「曖昧に」「やんわりと」断られたとして、断られたと認識することってできます?


 願望があったら自分に都合の良い解釈をしたくなると思うのですけど。*5
ましてや「余韻を残して」なんてことをしたら、特に「熱烈な片思い」だったら、はっきり断られるまで諦めがつかないでしょう。


 例えば、デートの誘いを何度も「やんわりと断って」もあきらめてくれない人の誘いをどうしても断れなくなった時に、「やった!やっと思いが通じた!」と誤解されることだってある。「僕の気持ちをわかってついてきたんだろう」とか「嫌よ嫌よも好きのうち」とか解釈して行動化する場合だってあるでしょう。どこかできっぱり断らないとどうしようもない。私は早い方がいいと思うけどね。変に「余韻を持たせ」たりしないで。だって、なかなか断れないでいたことだって、「気をもたせてひっぱった女性が悪い」理屈はなりたってしまうと思うから。


 「断る時には大勢人がいる安全なところで」、という「自衛策」もあるかな…いや、それはないよね。「大勢の前できっぱり振られる」ってプライドが傷つくし、その時は良くても、ストーカーになったり、あとをつけられたりすることだってあるし。


 それでも、そんな「やんわり断る自衛策」ですら、言われるまでも無く考えて実行している女性は多いはずなんですよ。




 そもそも、「男は獣」って男性が自分でそう言ってしまっていいの?
 それって、自分で自分をバカにしていることにはならないの?
 だって、普通は皆、衝動を抑えて社会生活を営んでいるわけでしょ??
 なぜ、「男は獣」って男性が自分自身のことを言ってしまえるんだろう。
 そう言ってしまうことで、自分自身の行動の責任を軽くしたいのではないの?
 性衝動や「本能」はただの言い訳なんじゃないの?
 

 そういう疑問がふつふつと沸いて来るんです。
 私は男性の性衝動…自分の意思とはうらはらに勃起してしまうことがあるということ、射精することでその落ち着かない状態を解消したいという欲求は、女性が(少なくとも私が)感じる性衝動とはちょっと違うだろうな、とは思っています。
 でも、渡辺翁が「男は獣」と書いている文脈は、そういう性衝動の問題とはだいぶ違うと思う。
 
 「・・・・と厳しく断られた。」
 「それでついカッとして衝動的に抱きつき・・・」
 「さらに抵抗され、はげしく揉みあい争ううちに、」
 「憎悪が膨らみおもわず首をしめてしまった」


という渡辺翁が想像している市橋容疑者の行動のプロセス(←あくまでも「推測」「想像」*6)を「男は一瞬で獣になる生き物だ」というならば、それは「性衝動」というよりは、当然得られるはずのもの(と決めてかかっている)を得ることができないことへの失望を、「くれていいはずのものをくれない女性が悪い」ことに責任転嫁して、怒りに基づく暴力を向けたということじゃないだろうか。


ものすごく幼いけど、獣では決してない。


人間の考えることでしょう。



あ、なんか『からくりサーカス』(藤田和日郎)の白金を思い出した。
wikipedia:からくりサーカスwikipedia:からくりサーカスの登場人物を参照のこと。
[rakuten:surugaya-a-too:10146655:detail]



「男は一瞬で獣になる生き物」

 渡辺翁の文意をよく解釈すれば、市橋容疑者を特別な変な人、というふうには見ないで、自分と地続きの存在としてとらえ、自分自身の中にもある「危うさ」を表現しているともいえるかな、とは考えました。
 それはそれで、一つの重要な自覚だろうとも思うのだけど、でも、その「危うさ」に対処するのは被害を受けた、あるいはこれから受けるかもしれない女性に求めるべきものなのかといえば、私はやっぱり違うと思います。

 それって、要するに「男は獣だから女は猛獣使いになりなさい」と言っているようなものでしょう?

エクセレントモデルからくりサーカス タランダ・リーゼロッテ・橘

エクセレントモデルからくりサーカス タランダ・リーゼロッテ・橘

でも、猛獣使いになるには資質も訓練も必要。人生経験が浅い普通の「若い娘」が言って聞かされたからと言って、そう簡単になれるものではない。
渡辺翁の「もしリンゼイさんが・・・」という文章は、失敗して獣に殺された猛獣使いは「猛獣つかいとして力量が不足していた」と言っているようなものだと思います。
「猛獣使い」になろうと思ったわけじゃない、ただ、その役割を押し付けられているだけなのに。





 それは無茶な言い分でしょ?
 甘えるのも大概にして欲しい。





 それより、自覚があるならその「一瞬で獣になる」部分をなんとか自力で治めてくださいよ、と言いたいです。
それをどうしても「生物学的な性差」に基づく「性衝動」「本能」のたまもので、どうしようもないもの、としてしか認識できないのであったら*7
すべての女性を猛獣使いにするよりは、「獣は檻」の方が現実的でしょう。



 でも、本当は、「一瞬で獣になる」はだいぶごまかしが入っているのじゃありませんか?と思うわけです。

 まぁ、前の記事で書いたように、渡辺翁に関しては、もうそういう「自分が偉くて当たり前」の環境で生きてきたおじい様なので、『からくりサーカス』の白金みたいなわがままな自意識を今さら変えるのは無理だろうと思います。


 本当は「獣」じゃないんでしょ?
 だから「獣は檻」といわれたら腹が立つのではないですか?
 でも、それだったら、「獣は檻」発言の手前側の「男は獣」について、反論していただけるとありがたいと思います。
 発情期という特別な期間がなくなってしまったホモ・サピエンスの、さらに、文明社会の中で、それなりの社会的ルールを作って、それを守って社会を維持しているわけだから。その社会的な存在であることのプライドは大切にして欲しいです。




 さて、ここまでで、tyokorataさんのエントリのタイトル部分前半についての「批判」はおしまいです。タイトル後半には特に異論はありません。

 曽野綾子女史の文章との関連については、長くなっちゃったので、いずれまた。今日はここまでにします。




◆余談の追記◆

内なる獣を檻に閉じ込めるって、
九尾を封印されたNARUTOみたいだよね、ってふと思いついた。
九尾に支配されるとどうにもならなくなって大切な人をも傷つけてしまう、
だから檻に入れて鍵をかけているけれど、
NARUTOが九尾をコントロールできるほど「成長」したら、
そのエネルギーを使って大活躍できるってことでしょ。

必要なのは「修行」だったりして。



◆真面目な追記 2010年1月7日◆

 コメントのやりとりやいただいたトラックバック、たくさんのブコメをいただいたことから、まだぐずぐずと考えています。ネット上の文章が断片で読まれるということも踏まえて、元の文章の一部を打ち消し線で消し、現時点で考えられる範囲での語句変更、書き換えを赤字で追記しました。
 いろいろなご意見ありがとうございます。

 とくにid:masudamiさん、まだ十分なお返事にはなっていませんけれど、とりあえずのお返事、被害体験のない私が、「被害者にとっての」性犯罪・性暴力被害の体験をどのようなものとして考えているかについて、追記の形で書き込みました。「その自責の念に駆られる被害者像自体、被害者に対するヨクアツだよね」については、後日別エントリで書いていきたいと思います。これ、私にとって正直なところ「痛い」問題なのですが、「逃げちゃいけない」「逃げられない」問題なので、たぶん、この先もずっと考え続けると思います。Special Thanks!

*1:何周遅れなんだろ、ってくらいのところですね…

*2:その考えの背景には当然、内面化された「性差別的」な価値観があるとは思います。でも、自分が生きている社会の価値観から自由であることは簡単なことではありません。日本のウーマンリブの中心人物だった田中美津さんだって、ご自身の性的虐待について、その被害を受けた自分をそのまま受け止めることができるようになるまで、とても長い時間が必要だったことを書いておられます。参考:田中美津著「いのちのイメージトレーニング」筑摩書房1996年 新潮文庫版あり。「いのちの女たちへ〜取り乱しウーマン・リブ論」河出文庫版の文庫版へのあとがきなど参照のこと

*3:後だしジャンケンみたいでごめんなさい。でも、「議論」が前向きの方向になるには、随時訂正はあっていいはずです。

*4:あくまでもこれはその「自衛論」を書いている人にとって「そのように見える」女性像一般を対象としているために具体性を欠く

*5:これ、男女関係なく。

*6:2009年12月24日の東京新聞朝刊に、「市橋容疑者『騒がれ複数回 首絞めた』殺意は否認」http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009122402000057.htmlというニュースが掲載されました。「殺意は否認」しているそうですが、10数時間の間をおいて2回首を絞めたことを供述しているようです。

*7:「仮定法」使用。現実がそうだと言っているわけじゃないですよ