「回天QP」・・・やっぱり「ちょっとブラック」じゃ済まない

はてな」のTOPページにしばらく写真が出ていました。
なんかわざわざ見に行く気もでなかったのだけれど、
紫音さんの12月17日付けの日記
↓「回天QP」戯言by紫音
http://d.hatena.ne.jp/sionsuzukaze/20091217/1261063707
を読んでから、やっぱりちょっとチェックしておこうと考え、
はてなブックマークページを読みました。

http://b.hatena.ne.jp/entry/www.iwadai.com/SHOP/031sutorappu.html
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ちょっとブラックな感じがしますが、いわゆる人間魚雷のストラップです。キューピーの大きさは約3㎝。 回天は、太平洋戦争末期、戦局を打開するためにとり入れられた日本海軍の特攻兵器の一つで、人間が魚雷の中に入って操縦しながら敵艦に体当たりしていく兵器です。回天は「天を回らし戦局を逆転させる」の意。回天乗組員を描いた横山秀夫の秀作『出口のない海』は、2006年市川海老蔵主演で映画化されました。
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自衛隊公認の携帯ストラップ、「回天QP」。
これ、私みたいなどっちかというと左側*1の人間がどうこう言う以前に、日本青年会議所とかが怒るべきじゃないかというのが率直な感想です。
「ちょっとブラック」なんて、「人間魚雷」とか「特攻攻撃」についての想像力の欠如も大概にして欲しいというところです。
・・・でも、もしかしたら、遊就館ミュージアムショップで販売しているかもしれない・・・
自衛隊グッズもいろいろ売っていたから。
念のため、【遊就館 QPストラップ】で検索をかけてみたら、軍服姿のQPをミュージアムショップでおみやげに買ったことがある人のブログは出てきたのだけど。

以前、靖国神社遊就館で、回天の実物を見たことがあります。
↓そのときの楽天日記「靖国神社へ行ってきた」
http://plaza.rakuten.co.jp/yotayotaahiru/diary/200905310000/
↓一緒に行った連れ合いのブログ記事「今日は靖国」…現代史のトラウマ…
http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-667f.html
(私の記事があまりにもナサケナイので補足)


連れ合いの知人、日本の近現代史が専門の院生*2の解説を聴きながらの見学でした。
私の記事にも連れ合いの記事にも回天については書いていなかったので、改めてちょっと書いてみることにしました。



 遊就館に展示されている「回天」は、実践で使われたものと同型の「回天一型改」というものです*3。なんでも、ハワイ米国陸軍博物館に保管されていたものが昭和54年に返還…永久貸与ということらしい…され、欠如部分の修復を行った後、靖国神社に奉納され、「遊就館」に展示されるようになったのだそうです。
 現時点で販売されている「遊就館」の図録には、「展示室13」の最後の章、「特攻作戦のはじまり」(94ページから95ページ)に写真と初攻撃で戦死した4名の若者の写真が掲載されている。
ここに掲載されている「回天一型」の説明は、以下のとおり。
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大東亜戦争末期の昭和19年8月、海軍が制式兵器として採用した「人間魚雷」である。回天は日本が世界に誇った酸素魚雷を活用することを黒木少佐、仁科少佐が着想したことから研究され、一発で巨艦を轟沈させる威力をもつ兵器となった。
※「靖国神社 遊就館 図録(平成20年2月11日 第1刷)」95ページより
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 もうね、「遊就館」に展示(と言って果たしていいのかとも思うけれど)されている戦死者の方々の遺影がみな若くて、館内を見ていくうちにやるせない気持ちになったことを思い出しましたけれども、改めて図録でこの回天初出撃の戦死者の写真を見て怒りに近い感情が沸いてきます。

 回天を考案した、2人のうち、黒木少佐は1944年9月に「回天」の訓練指導中に遭難して殉職しています。23歳の誕生日の数日前でした。そして、仁科少佐は1944年11月に「回天」初攻撃に参加、21歳での戦死でした。
 この2人が、「回天」の原型になる人間魚雷を最初に考案したのが1943年10月、当初は上層部に却下されたものの、1944年2月に試作が認められ、7月に試作機が完成、8月に制式兵器となり、9月に基地ができて、11月の初攻撃という、非常にタイトなスケジュールで開発、訓練、実戦投入されています。


 以下、ウィキペディアの「回天」より、一部引用します。
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1944年7月に呉工廠で2基の試作がなされた回天は、搭乗員が突入直前に潜望鏡を使用して敵艦の位置・速力・進行方向を確認、これを元に射角などを計算して敵艦と回天の針路の未来位置が一点に確実に重なる(命中させる)ように射角を設定。突撃開始から命中までに要するであろう時間も予想しておく。そして潜望鏡を下ろし、ストップウオッチで時間を計測しながら推測航法で突入する。命中時間を幾分経過しても命中しなかった場合は、ふたたび潜望鏡を上げて索敵と計算を行い、突入を最初からもう一度やり直すという戦法をとり、訓練もその方向で行われた。しかし、攻撃目標となる太平洋の環礁は水路が複雑であり、夜間、しかも潜望鏡とジャイロスコープでの推測航法では目標まで到達することは充分な訓練を経ても難しかった。泊地攻撃での回天による戦果は、発進20基のうち撃沈2隻(給油艦ミシシネワ、歩兵揚陸艇LCI-600)、撃破(損傷)3隻であった。
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 確かに命中すれば破壊力が大きいけれども、操縦がとても難しい。動力として使っている魚雷よりも「回天」は大きく重い上、魚雷よりも遠くから発進することがメリットだったようなのですが、当然、スピードが犠牲となっていて、迎撃を受けやすいということになります。しかも、ひとたび発進してしまえば、ちょっとした操縦ミスや誤作動、計算の間違いなどで目標から外れてしまっても、後戻り、やり直しすることはできず、戦果とは無縁の死をまぬがれることができません。
 紫音さんが、書いているとおりの「必死の兵器*4」を、二十そこそこの、実戦経験が浅い、しかも、本来ならば未来を作っていく若者が、自分が搭乗することを前提に考案・開発していったということ、がもう本当に痛ましくて痛ましくてなりません。
 そして、それを組織が兵器として作戦として採用した、もうそんなものにまで手を出さなければならないほど戦局が追い詰められていたということなのでしょうが、もはやまともな戦争ができない状態だったにもかかわらず、「必死の兵器」を開発し実戦に投入することで、軍が、ひいては国家が、若者を殺していったということに他ならないでしょう。

 多大な犠牲にもかかわらず戦争は負けました。
 無論、「志願」して、自ら死地に赴いた若者達を貶めるつもりはありません。でも、その彼らの未来を奪った「歴史」を直視していかなければ、亡くなった方の犠牲を生かすこともできないのです。

*1:自称フェミニストの「シャミン」ですよ。いや、社会民主党民主党も支持してないけど

*2:歴史修正主義者でも教条的な左翼でもない人。ただし、それはいわゆる「中立」を意味しないけど

*3:ウィキペディアの回天の項目で写真を見ることができます

*4:「僅かでも、ほんの僅かでも残されていた生存の可能性を奪い去った、それは人として成すべきではなった兵器」←紫音さんのエントリより引用