「ひらがなタイプライター」から「ワープロ」、そして「パソコン」

昨日の日記では、「ひらがなわかちがき」での記述にチャレンジしてみました。



やねごんさんの記事がきっかけだったのですが、
↓「かながきの ぶんしょうは なぜ 「よみにくい」と いわれるのか?」
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20091127#c1259493938



ずっと前に、身体障害と知的障害を併せ持つ人たちの施設で働いていたとき、
「ひらがなタイプライター」で詩や作文を書いていた人たちのところで、
その人たちと一緒に書いてこられた日記の文字の間違いを直したり、
読みたい本にルビをふったり、手作りの詩集を作ったりしたことを
懐かしく思い出しながら、「ひらがなわかちがき」を楽しんで書きました。
もう、20年以上も前のことになります。


手で一文字一文字タイプする人もいらっしゃいましたが、
その人その人の身体の一番うまく動かせる場所を使って、
タイプライターの操作ができるように、
機械工作が得意な作業療法士や看護師が、
創意工夫を重ねてつくった補助具を使って、
足の指で打つ人もいらっしゃいましたし、
ヘッドバーというヘルメットにとりつけた棒を使って、
頭の動きでタイプする人もいらっしゃいました。

一人一人の身体の動かし方にあわせた手作りの道具たち。
ユニバーサルデザインでは追いきれない、
パーソナルデザインのハードウェアです。





平成に入ってから、ワープロが個人で購入できる値段になり、
その人たちも、それまで使っていた「ひらがなタイプライター」から、
順次ワープロに切り替えていきました。


ワープロの導入で、その人たちの「文章表現」の幅が格段に広がりました。
当初は「漢字が使える」「文字の大きさを変えることができる」ということが
とても面白かったようです。

また、「ひらがなタイプライター」をワープロに変えることのメリットは、
単に漢字が使えるというだけでなく、画面を見て訂正できるという点にもあります。
なにしろ、変換キーを押せば、自分ではうろ覚えの漢字もでてくるのですから、
使える漢字も増えていくのです。
誤変換やもとのひらがな入力のミスで不思議な漢字になってしまって、
その時には気がつかなくても、あとから修正することもできます。
また、モニターで文章全体を見直して推敲することもやりやすい、というメリットもあります。


その様子を見ていてた私としては、
「漢字を使うことができる」ことが「特権」である、ということも、ある意味納得します。
でも、「特権」だから廃止すべき、とまでは思いません。
もちろん、生活に必要不可欠な情報は、
漢字が使えなくとも手に届くように
配慮する必要があると思いますし、
漢字を使った文章を書くことができない人であっても、
文章による自己表現があって当たり前という認識も必要です。



でも、漢字を使えるからこその、ことば遊びも文章の楽しみのうち。
「きちんと漢字をつかった文章を書くべき」というのではなくて、
漢字であっても、「ひらがなわかちがき」であっても、
表現したいものが文字として現すことができる状態があったほうが楽しい、と思います。




例えば、「鉄管ビール」という言葉。
これ、私は、その施設の利用者から教わった言葉なんですよ。
その人は、親しい人との会話で覚えて、日記や手紙の終わりによく使っていました。

私にとっては知らない言葉だったので、意味を教えてもらいました。
エス・ノーサインやひらがなの文字盤を使っての会話なので、
とても時間がかかるのですが、水道水のことだと教えてくれました。
「鉄管」は水道管のことらしいです。
なるほど、と思いましたけれど、かなタイプではなくて、
ワープロの漢字かな混じりでの表記の方が、イメージしやすいと思いませんか。


かなタイプでは、
「きょうは もう てっかんびーるを のんで ねます。」
としか書けなかったものを、ワープロを使って
「今日はもう 鉄管ビールを 飲んで寝ます。」
と書くことができるようになったときに、その人の喜んでいた様子を思い出します。



これを「漢字を使うことを強要されている」と受け取るのか、
それとも、「漢字で表現することを楽しんでいる」と受け取るのか。
一つの事例で一般化することができない問題ではあります。
文化的なマイノリティ・グループに属していると、
マジョリティの価値観をそのまま自分たちに当てはめてしまうことはしばしば起こります。
「強要されている」ことにさえ気がつかない、そのような抑圧も確かにあります。
でも、もう一方で、表現の幅が広がる楽しみ、ということもあるのです。
特に、「しゃべる」ことでのコミュニケーションに障害がある人にとって、
文字でのコミュニケーションの表現力が豊かになることは、大事なことなんです。




さて、ワープロが普及したおかげで、
それまで漢字混じりの文章を書くことができなかった人にも
漢字を使った文章を書くことができるようになりました。
けれども、手作りの補助具が大掛かりなものであればあるほど
ワープロに代えていくのは難しい。

それを改善したのが、パソコンの普及です。
ちょうど私がその施設の職から離れる少し前のころ、
作業療法にパソコンが導入されました。
50音表上の文字を指定してスイッチを入れることができるシステムがあり、
(これ、かなタイプ時代には同じような仕組みを手作りで作ってあったんですよね)
キーボードを使うことが難しい人にも、パソコンで文章を作ることができるようになりました。



技術の進歩で、漢字混じり文を書いたり読んだりすることの困難さは、
ある程度まで緩和されてきていると考えていいと思います。
無論、それなりの道具…設備投資…が不可欠なのですが。
あとは、文章の平易さという問題が残ります。
日本語を覚え始めの外国人の方や、知的障害がある方…高齢者の認知症の問題も併せて、
生活に必要な情報が「ハードルの高いもの」では困りますから、
そういったものは、それこそ言葉のユニバーサル・デザインが必要でしょうね。



「漢字かな混じり文でなければならぬ」という意識を変えていく試みとして、
私は、やねごんさんの取り組みを支持するのですが、
「書きたい場合は漢字かな混じり文を書いたり読んだりすることができる」
条件整備も大切だと思うのです。