暫定規制値とモニタリングについて

食の安全…我が家の場合 - よたよたあひる’S 「はてな」日記
私は「科学者」には正確さを期待するので - よたよたあひる’S 「はてな」日記
誤解で「御用学者」や「御用報道」認定を増やしてもあまり得るものはないと思う - よたよたあひる’S 「はてな」日記
の続きです。

 まずは前回の補足です。
 武田先生のブログは、特に子育て中の「お母さん」たちに向けて、その不安をうけとめて、いろいろと生活に役立つ情報を提供している*1ので、参考にしている熱心な読者も多いでしょう。その記事中で「専門家」「行政」「生産者」「企業」への不信を根拠が曖昧でかつ検証が難しい情報として書いておられるのが問題だと考えています。
 「専門家」「行政」「生産者」「企業」を「なんでも信じたほうがいい」という提案ではないです。データなど根拠があるものや成果をあげているものについてはきちんと評価するべきだということに尽きます。
 なぜならば、全面的な不信にとらわれてしまうと、信じることができるものは、「自分が信頼している人の情報」や「自分が動いてやったこと」だけになってしまいますから。「自分が信頼している人の情報」が妥当なものかどうか、それは信頼関係だけが根拠になるので、「間違い」が混ざっていても訂正ができません。ニセ科学陰謀論が広まる土壌になります。

しつこいようですが、武田先生の7月12日の記事
http://takedanet.com/2011/07/post_93a0.html
より以下に書き出しの部分を一部引用します。批判のためです。

また、基準値以上の牛肉を食べても「健康に影響がない」という専門家が現れました。
2011年7月12日、朝7時のNHKニュースに登場した何とか研究の権威の先生で、彼は、
「1日500グラムの牛肉を200日食べたら1ミリシーベルトになるので、汚染牛肉食べても健康に影響はない」
と言っていました。
放送するNHKもNHKですが、こんなことを言う専門家も専門家です。

 まずは、前回の記事、  
 誤解で「御用学者」や「御用報道」認定を増やしてもあまり得るものはないと思う - よたよたあひる’S 「はてな」日記を書いた時にはまだ自分でも未整理で不適切な表現をしてしまった部分について、武田先生への謝罪とともに訂正します。前回記事では

でも、この記事で紹介されている「発言」をした「専門家」が実在しているのかどうか、という大問題があるのです。

と、武田先生が「専門家の発言を不正確に紹介している」という部分を「実在しているのかどうかという大問題」*2として批判を書いてしまったのですが、「500gの牛肉を200日食べると1mSv」が、「暫定基準規制値限度いっぱいの500Bq/kgの牛肉500gを200日なら1mSv」という計算なら、暫定基準規制値の説明としてあってもおかしくはない…食生活上ちょっとありえないけど、*3ありえない食生活、極端な食生活でも1mSvという説明だったら、まったくないとは言えない。だから、私がその7月11日の朝のNHKニュースを見ていない以上、「実在しているか」という表現は過剰な批判だったと反省し元記事も訂正します。
 それでも、【汚染牛肉を「安全」という専門家】というタイトルで
何とか研究の権威の先生で、彼は、「1日500グラムの牛肉を200日食べたら1ミリシーベルトになるので、汚染牛肉食べても健康に影響はない」と言っていました。
 という紹介をするのは、「専門家」と「報道したNHK」をまとめて「国民をだまそうとしている悪者」という方向に読者をミスリードするものだと考えますので、その点に対しての武田先生への批判は撤回しません。

 武田先生による「7月11日朝7時のNHKニュースに登場した専門家」の発言紹介は、相当部分が省略されているはずです。前半は暫定基準規制値*4後半は「たとえ汚染された牛肉を数回食べたとしても、それがそのまま健康被害につながることはない(ただしずっと食べるわけにはいかない)。という内容のはずです。この「たとえ汚染された牛肉を数回食べても大丈夫」という情報は、知らずに食べてしまってものすごく心配している人には大切な情報だと思います。*5必要なのは、「だから食べてしまったもの」の心配をしているより、これからの食生活を気をつけましょう。」という話じゃないかと思うわけです。

 ただし、武田先生がこの記事で主張していることは、「暫定基準値」の値が高すぎる、という問題点についてなんですよね。それは記事後半を読めばわかります。
 私は武田先生の暫定基準規制値に対する批判について、「より安全であるための方向で数値を決める必要がある」という点については異論がありません。*6ただ、今もなお綱渡り状態の壊れてしまった福島第一原発を抱えている以上、まだすぐに事故前の基準に戻すことは難しいだろうと考えています。
 暫定基準規制値は「絶対の安全」を保障するものではありません。現在の日本で、「それなりに安全な」飲料水や食品が日本に住む人全部に所得が少ない人でも購入可能な値段で十分に行き渡るようにするために設定された数字だと考えるしかないです。
 このあたりの考え方については、生活クラブ生協と東都生協のサイトで学びました。86年のチェルノブイリ事故以来、残留放射性物質の検査をずっと継続してきた、この問題については実績がある生協です。
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放射性物質の農畜水産物への影響に関する当面の対応について(2011/7/7)
放射性物質の農畜水産物への影響に関する当面の対応」東都生協組合員向けの7月7日お知らせPDFファイル
http://www.tohto-coop.or.jp/news/upload_pdf/upload/%E3%80%90%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E7%89%88%EF%BC%9A%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E3%80%9120110707%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A%E5%BD%93%E9%9D%A2%E3%81%AE%E5%AF%BE%E5%BF%9C%E3%83%81%E3%83%A9%E3%82%B7%EF%BC%AE%EF%BD%8F%EF%BC%96.pdf


 しかも、実際のモニタリングの数値は、ND(検出限界未満)を含めて、暫定規制値よりもはるかに低い値になっています。*7
 これは、「行政や生産者が数値をごまかしている」からではありません。事故後3か月半経過し、半減期が短いヨウ素放射線をださない物質に変わっていったことや、野菜などは事故当時に成長していてフォールアウトを直接浴びた作物の収穫が終わって(汚染されたものや汚染されたおそれのあるものは廃棄された)、新たに育った作物が収穫されていることに加えて、生産者や行政の研究・指導機関が、これまでの研究成果(その中にはチェルノブイリの経験を踏まえた研究もあるでしょう)を元に、土壌の改良や肥料、家畜の世話の方法を工夫している成果があがっている、と考えていいでしょう。
 そろそろ見直しを始めても良いのかなとも思いますけれど、「最初から全くいい加減な国民を被曝させるための基準だ」と言うのは違うと思います。
 それこそ、武田先生も「被曝はとりかえすことができる」と書かれています。
http://takedanet.com/2011/04/post_0ebb-1.html
http://takedanet.com/2011/07/post_a5f3.html

 将来的になんとかより「安全な生活環境」を取り戻して、被曝した分を取り返すためにも、生産者への支援体制を整え*8同時にモニタリングの強化で消費者の安心を確保することが重要でしょう。
 行政は後手後手にまわってますが、あまりにも被害の広がりが大きいという現実の前に間に合っていない、というところではないかと思います。
 生産者に対しても、行政に対しても、流通に対しても、厳しく監視するけれども、同時に再建に向けての支援を惜しまないこと。成果は正しく評価すること。それは、個々ばらばらの対応では難しいことです。「盲信」じゃ困るけれど、「不信が当然」でも何もできない。結局、自分の首を絞める方向に向かってしまうのじゃないか。
 そんなふうに考えています。

*1:実際に被曝低減に役立つ生活情報を発信していることも多いと思います。そこは否定しません。

*2:勘違いからきた「ねつ造か」というノリですね…反省します。記事の表現も直さなくては

*3:毎日牛肉を500g食べる生活だと、被曝の問題以前に、生活習慣病のほうが心配になりそうです。あと経済的に無理ってこともある。昼にステーキ、夜に焼き肉とかじゃないと一日500gにはならないんじゃないかな。あ、チェーン店の牛丼屋で肉の特大盛りだと1食が300gくらいにはなりそうだけど、チェーンの牛丼の肉は輸入牛肉なので、生活習慣病問題的にはまずいのは同じだけど今回のセシウム汚染とはちょっと関係ないでしょう。

*4:ブックマークコメントで、id:ohira-y さんがご指摘くださったので、確認しましたら厚生労働省3月17日の通知(食安発0317第3号)だと「原子力安全委員会から示された指標値を暫定規制値とし」と書いてあるので、「暫定規制値」が役所のつけた名称のようです。ただ、「暫定基準値」という言い方もかなり一般化して武田先生以外にも新聞や専門家が使っているので、どっちでもいい、ということも言えるのですけど。一応、役所のつけた名前を使っておこうと思います。通知や議事録などを検索するのにはこっちの名前のほうがよさそうなので。

*5:もしかしたら私も食べているかもしれません。父の日特売で普段は買わない国産黒毛和牛のステーキ肉を買ったんですよね。霜降り肉でとっても美味しかった。ほら、そういう「特別なご馳走」のつもりで食べた肉で健康被害がでたらどうしよう…と思っている人にとっては、「数回食べても大丈夫」は大事な情報なんですよ。だって食べてしまったわけで、「それがもとで癌になったらどうしよう」と自分を責めて悩んでいるほうが健康によくない。

*6:記事に書いてある計算方法については態度保留にしておきます。暫定基準規制値の決め方はなかなか複雑なのでまだよく理解できていません。

*7:数値のでているHPをいろいろ調べてリンクした部分がPCの誤操作で消えてしまった >< ので、あとでもう一つ記事を上げます。

*8:今回の和牛の、餌の稲わら問題は、例年、当たり前に使ってきた飼料が無い、という大きな問題を明らかにしました。安全な水と飼料は不可欠です。一度、廃業してしまった農家が再起するのはものすごく困難なことですから、なんとか生活と生産…たとえ出荷できなくても…を続けることができる条件を整えないとまずいです。

誤解で「御用学者」や「御用報道」認定を増やしてもあまり得るものはないと思う

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の続きです。

今回は、武田先生の7月11日記事
【汚染牛肉「安全」という専門家】の問題点についての批判です。
結論から言うと、武田先生はテレビ番組の発言の一部を若干聞き間違えたか、あるいは、要約して紹介するプロセスのどこかで論を省略してしまっているのか、いずれにしても、読者にミスリードさせてしまうタイトルをつけてしまったのではないかと推測できます。

 ただ、批判に入る前に、セシウム汚染牛肉問題は大きくひろがってきているので、私自身もちょっと心配しながらモニタリング値をチェックしているということを明記しておきます。暫定基準値の数倍にもなる放射性セシウムを抱える牛肉を「ずっと食べても良い安全な食品」とは全く思いません。モニタリング体制の見直しは必須だし、生産者はもちろん、国にも自治体にも流通業や飲食店のみなさんにも、それぞれの立場から「安全な食品」の流通に真摯に取り組んでいただくことを望んでいます。だから、武田先生が想定しているであろう読者の「子育て中のお母さんたち」*1が食品からの放射性セシウム摂取を心配して、できるだけ「安全が確認できている」食品を選びたいと考えることには共感するし、これまでのモニタリングだけでは不足だったことが心配の種なのは同じです。
 違うのは、武田先生の呼びかけが「何も信じるな」になってしまっているのがちょっと違うだろう、という点です。

 そして、武田先生のブログ発の、「風評被害」(言葉の本来の意味での風評被害です)を見過ごすことはできません。武田先生のブログ記事は「拡散」も早いし、影響がとても大きいんですよね。*2

 さて、武田先生の7月11日の記事 
http://takedanet.com/2011/07/post_93a0.html
から一部引用します。

また、基準値以上の牛肉を食べても「健康に影響がない」という専門家が現れました。
2011年7月12日、朝7時のNHKニュースに登場した何とか研究の権威の先生で、彼は、「1日500グラムの牛肉を200日食べたら1ミリシーベルトになるので、汚染牛肉食べても健康に影響はない」
と言っていました。
放送するNHKもNHKですが、こんなことを言う専門家も専門家です。

記事の書き出しの部分で、武田先生はこの「専門家」を「足し算が出来ない専門家」、つまり信用できない専門家と断じて、NHKのことも批判しています。
でも、この記事で紹介されている「発言」をした「専門家」が実在しているのかどうか、という大問題があるのです。
 NHKの放送がなかったというわけじゃないですよ。
紹介されている発言が不正確なので、発言の文意がねじ曲がってしまっている(可能性が高い)、ということです。
 
 でも、この紹介の仕方は不正確だし、読者に「2000Bq/kgや4000Bq/kgものセシウム汚染牛でも安全だという、御用学者がいる」というミスリードを与えるものだと思います。
 まず、「1日500グラムの牛肉を200日食べたら1ミリシーベルトになるので、汚染牛肉食べても健康に影響はない」…というのが変なんですよね。だって、ここでは汚染の程度がどのくらいのBq/kgの牛肉を500g食べるのかがわからないから、計算のしようがないんですもの。*3しかも、武田先生のブログ記事ではその「専門家」の名前も所属も「専門分野」も書かれていないので真偽の調べようがありません。

 そこで、「セシウム 牛肉 500 200」で検索してみました。
 発見したのは、7月12日のMSN産経ニュースの記事。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110712/dst11071201150002-n1.htm
以下に一部引用。

 立命館大の安斎育郎名誉教授(放射線防護学)によると、1キロ当たり500ベクレルの放射性セシウムが検出された肉を200グラム食べると、被曝(ひばく)線量は0・0016ミリシーベルトになる。今回最も数値が高い牛肉(3200ベクレル)で換算すると0・01ミリシーベルトだ。安斎教授は「毎日食べている食事にはカリウム40という天然の放射性物質が含まれており、人はカリウム40で年間0・2ミリシーベルト被曝している。0・01ミリシーベルトはこの20分の1。何回か食べても、放射線が目に見えて健康に影響するレベルではない」と話す。
 ただ、「消費者にとっては、行政が定めた基準値が守られていなかったということが深刻な問題。安全だといわれるほかの食物も汚染されているのではないかと不安になる」とも指摘。日本分析センターの池内嘉宏理事は「汚染しているかどうかは肉自体を調べなければ分からない」と検査の重要性を訴えている。

 この記事の文章だと、500と200という数字は一致していますけれど、
・500Bq/kgを200g食べたときに0.0016mSv、これが暫定基準値についての説明で、
・3200Bq/kgなら0.01mSv、こっちは「今回発覚した汚染牛肉を200g食べたときの被曝線量計算」ですね。で、結論は、「何回か食べても、放射線が目に見えて健康に影響するレベルではない」ということになる。
 この文脈ならば、知らずに汚染牛肉を食べてしまった人へ、「食べてしまった、もう駄目だ・・」というわけじゃないよ、という情報のはずです。「200日食べても大丈夫」という話ではないです(文章の最後に追記を書きました)。
 しかも、「安全」ということは一言も言っていないし、「流通してしまったことが問題」ということもはっきりおっしゃっている。この先生の発言の一部をなにかの拍子で取り違えられた可能性があるな、と思いました。とにかく「500gを200日」では被曝量を計算できないことだけは確かなので、武田先生が発言の一部が省略…または取り違えて紹介していらっしゃることだけは確実なので。

 けれども、ただ数字が一致しているだけで、このMSN産経ニュースに登場している「専門家」と武田先生が見たニュースの「専門家」が一致しているとはかならずしも言えないだろう、ということで、さらに、このMSN産経ニュース記事に登場する専門家の名前とNHK、そして、7月11日という検索をかけて発見したのが、
http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20110711-21-28170
あさイチ放射能 食品検査はこうして行われる」
放送日: 2011年7月11日(月)
放送時間:午前8:15〜午前9:55(100分)

7時のニュースではないのですが、NHK総合の番組です。
この番組の番宣がニュースの時間に一部紹介されたということならありそうです。もちろん、推測以上のものではありません。
でも、同じNHK総合の同じ日の番組でニュースと生活バラエティの違いはあっても、そうそう同じ領域の違う「権威ある専門家」の話が紹介されるとも考えにくい。

だから、私の推理は武田先生がNHKの番組の一部を、不正確に紹介している、というものになりました。
何が問題かといえば、武田先生の「不正確な紹介」は、匿名で専門領域も不明ではあるけれども、内部被曝問題で何かしらの権威ある専門家が、国民を危険に陥れるような誤った計算をNHKという公共放送の場で披露してけしからん、専門家っもNHKも信用してはならない、という結論を導きやすいということです。

だって、武田先生の当該記事を引用したブログはたくさんあるんですから。

私だって何も考えずに特に高価なものでない普通の買い物をするだけで「安全な食品」を手に入れたいと願ってます。
でも、それは「専門家も政府も自治体も検査体制もその公表するデータも生産者も流通も何も信用しない」ということでは成立しません。

検査体制を充実させることはもちろん、流通に乗ってしまった肉の検査と回収、その損害賠償(検査されていてNDが確認されている肉は当然あるわけですが…いまとなってはたとえNDであっても販売は難しいでしょう…残念ですが…)生産者には安全な生産ができるように情報提供、指導、そして損害賠償と生活保障が必要ですし、家畜が汚染されたということはその家畜を世話していた生産者の被曝調査や健康診断も重要だと思います。そのために何ができるのか、に取り組んでいく必要があります。

武田先生のブログ記事のまとめは以下のとおり。

でも、報道の自由をもっている報道機関、学問の自由で守られている研究者が、なぜ政府に追従して、国民を被曝させようとするのでしょうか?

いや、藁人形をたたくのでは問題は解決しないのではありませんか?

追記:
武田先生も
http://takedanet.com/2011/04/post_0ebb-1.html
という記事で、過去に被曝してしまった分を「取り返せる」お話を書いています。汚染牛を食べてしまった人、自分が食べた牛肉が汚染されていたかもしれない、と心配している人に対して、「数回食べてしまっても大丈夫」は大切な情報だと思うんだけどな…と書いておきます。

*1:武田先生のブログ記事は「お母さんたち」への呼び掛け、注意喚起、情報提供として書かれていますからね

*2:前回の私の記事についてきた「おとなり日記」は武田先生のブログ記事を紹介(おそらくは賛同して)しているものがならんでいたりしますからね。

*3:それから、「1日500g牛肉を食べる」のもそうそうあることじゃないでしょうし。昼ステーキで夜焼き肉とかだと500gくらい食べるでしょうか

私は「科学者」には正確さを期待するので

食の安全…我が家の場合 - よたよたあひる’S 「はてな」日記の続き、というか、これからがもともと書きたかったこと。

 前のエントリは私自身が「余分な被曝はしないにこしたことがない」と考えていて、公表されているモニタリング値をいろいろと見比べながら、調理方法を大抵は気にしながら(ときどきは忘れながら)ちょっとずついろんなものを食べることで自分なりの「安全確保対策」をしているくらいには、食品の放射性物質汚染と内部被曝を怖がっているというお話で、ここからは、そういう私が汚染牛肉の流通のニュースがでてからの武田邦彦先生のブログ記事について、とっても強い不満を持っているというお話です。

 どんな不満か、というと
(1)妥当で役に立つ生活情報の中に、不正確な情報が混在している。
   …特に「牛乳」についてはデマと判断してよいと考えます。また、政府、行政や「専門家」の発言・意見の紹介も正確さを欠くものがあります。
(2)危険性への注意喚起のために煽情的な表現をすること。
(3)(1)と(2)の結果として、武田先生の記事は、「国も自治体も(その発表するデータも)専門家も生産者も流通もみな信じてはいけない」というメッセージが発信されてしまっていること。
*1
 なんでもかんでも黙って信じろ、ということではないのです。根拠なき「安全宣言」など具の骨頂だと思いますが、実測値をもとに具体的な評価をしながら着実に対応していく必要があるのに、不正確な情報(デマでも流言飛語でも)をベースにして行動すると、迅速な対応をしようとしたはずが、かえって混乱する場合もでてきてしまいます。

 武田先生の記事は、福島県や関東地方の汚染が強い地域の人々、特に子どもたちを心配し、子育て中の女性たちの不安によりそおうとしている姿勢がうかがえる文章であり、また、自分で取り組むことができる被曝低減のためのお役立ち情報がいろいろ掲載されているので、参考にしている人は多いのではないかと推測します。だからこそ、不正確な情報が混在し煽情的な言葉で書かれているのはとても困ったことだと考えるのです。
 
 生活情報として参考にする人が多い武田先生の記事中に、モニタリングや行政対応や「専門家」の言葉が不正確に紹介されていて、生産者や行政や「専門家」に対しての不信感を書いているのでは、昨今話題になっているリスクコミュニケーションを混乱させる要因になります。だからものすごく問題が大きいと考えるのです。*2
 私がこのような判断したプロセスをこの記事に書きます。

 まずは、牛乳についての記述です。7月9日の記事
http://takedanet.com/2011/07/post_5d33.html
 南相馬市産の牛肉に2000Bq/kgを超えるセシウム汚染が発見された事件を受けて、「私は4月に各地のデータを見ていましたら、その時点ではまだ肉類には放射性物質が取り込まれていませんでした。7月に入って牛肉に放射性物質が入ることを予測できず、すみませんでした。」と読者に謝罪を述べたうえで、なぜか、牛肉ではなくて牛乳の汚染の話になってしまっています。

だから、食材というのはとても難しく、私が牛乳については煮え切らないことの原因になっていて、それは良心的な酪農家も同じく迷っているのですが、牧草の汚染度がハッキリしないのです.
かつて私は北海道の牛乳は安全だと言い、途中で少し危ないと変えました。それは福島の乳牛をこともあろうに、北海道に移動させた形跡があったからです。
日本の多くの人、子どもを抱えているお母さんは、安心な牛乳を求めておられます.是非、生産者は「汚れている牛乳を絶対、出火しない」と決意して欲しいと思います.
それがどんなに辛いことか、生活を脅かすものか、私なりに理解しているつもりです。でも同じ日本人として健康と命を守ってください。
政府が「国民を被曝させても、生産者を守る」という基本的立場を取っているので、政府に頼らず、私たちで子どもを守りましょう。
*3

 この記述の問題点は、福島県の原乳モニタリングと出荷規制や自粛の解除がどのように行われているのかを無視して、牛肉の汚染(牛肉が汚染されているなら牛乳も危険)+チェルノブイリ原発事故後の牛乳の汚染と子どもたちの甲状腺がんの問題+安全な牛乳を求めているお母さんたちの願い→【是非、生産者は「汚れている牛乳を絶対、出火しない」と決意して欲しいと思います(汚れている牛乳を出荷している生産者がいるだろうという予測)】になってしまっているというところです。
 決意も何も「汚れている牛乳」は出荷できないし、「汚れている牛乳」にならないように県も生産者も必死の努力をしているのですが。

7月11日の記事
http://takedanet.com/2011/07/post_088c.html

チェルノブイリでは原発から少し遠いところの牛乳を飲んだ子供たちから大量の甲状腺がんがでました。
このことがあるので、私も牛乳については慎重に調査をしていましたが、どうも危険なようです。
大手の販売会社は多くの親が心配しているのに、汚染状態を公開していませんし、「汚染された牛乳」と「綺麗な牛乳」をまぜて、ベクレルを規制値以内に納めているという情報もあります。
つまり、政府が「規制値を下回ったものを拒否するのは風評」と言い、それにのって業者が汚染の公表を避け、さらには「混ぜてベクレルを下げる」ということもなされるでしょう。

 これはデマの範疇に入ります。正確な情報は、1段落目のチェルノブイリの子どもの甲状腺がんの部分だけで、武田先生がどのような慎重な調査をしているのかわからないのですが、福島県のHPに掲載されている原乳の調査結果はほぼND(検出限界未満)が続いたものになっています。「いや、NDと書いてあったところでそのND数値が明記されていなければわからないじゃないか」という批判は当然あるかと思います。これは各報告で明記してほしい部分です。ただ、5月11日の検査結果で飯館村の原乳にCs137が6.5という数値を出していますから、6.5は「検出限界未満」ではない、と見ることができるのではないでしょうか。そして重要なのは、この6.5Bq/lの飯館村の原乳は出荷されていないということです。
 原乳の検査は、各農家から集めて一時保管しているクーラーステーションごとに検査をしてND(検出限界未満)が3週間続かないと出荷されません。出荷の制限は市町村単位で行うわけですから、個別の農家ごとの検査よりもクーラーステーションごとの検査のほうが効率的です。もちろん、汚染がひどかった当初はクーラーステーションごとの検査ではなく、個別検査の数値が下がった時点でクーラーステーションごとの検査になりました。そして、制限が解除されてもその後3週間はクーラーステーションごとの検査が続くのです。「きれいな原乳」であることが確認できたあとの原乳はさらに、乳業工場に集められたあと、そこでサンプルをとって検査をしているわけです。言い方を変えると原乳の検査は、野菜や肉、魚よりもはるかに徹底した検査をしている…「前頭検査」ならぬ「全量検査」(←液体だからね)をしていると考えていいでしょう。
 だから、牛肉から高濃度の放射性セシウムが検出されたからといって、牛乳も危険だ、というお話は変なのです。
 武田先生の7月11日記事には、次のような記述もあります。

【業者の方へ】
原発近くの牛乳のデータと物流について、すべて公開してください。
食材の安全と安心を得るには「正直で誠実」であることだけが求められます!!
汚染された牛乳を飲む子供たちとともに、一度、信頼を失うと、日本の酪農業には将来とも大変な打撃です!!

 生産者の時点で検査されて福島県のHPで公開されているのですが、それ以上の公表をどこの「業者」に求めるのでしょうか。「信頼を失うと大変な打撃です」ということは確かなのですが、現状で生産者にアピールするならば、「大変なご苦労をなさって安全性を確保してくださってありがとうございます。これからも厳しい状況は続きますからお辛いでしょうけれども飼料や水の管理の徹底をどうかよろしくお願いします。」になるのではないかと思います。

 私が参考にしている福島県のHPから、福島県内の農林畜産物の放射性物質モニタリング値が掲載されているページをご紹介します。*4
福島県HPトップ > 組織別 > 農林水産部 > 農産物流通課 > 原子力発電所事故による農産物被害等関連情報>原子力発電所事故による農産物被害等関連情報

お探しのページを見つけることができませんでした。- 福島県ホームページ
こちらの下のほうに、日々更新されている農林畜産物・水産物のモニタリング値のPDFへのリンクが掲載されています。

牛乳の検査と出荷制限についての手順は農林水産省のHPにQ&Aがあります。
きのこや山菜についてのQ&A:農林水産省

 厚生労働省水産庁のHPで公表している食物のモニタリング検査は、都道府県や生産者があちこちの検査機関で検査した数値のとりまとめだし、データそのものは信用しています。モニタリングの件数については満足していない、特に海産物そして今回の牛肉の件で肉類についても若干不安はあります。*5

…それとも私は何かを見落としているのでしょうか。

長くなったので、続きはまた今度。

*1:被曝低減に向けてとにかく一刻も早い対応が必要であるにも関わらず、行政の対応が後手後手になっているということ、特に環境放射線の数値が高い場所で子育て中の家庭が欲しい情報もなかなか手に入らず、いつになるのかわからない対応を悠長にまっていられない、という事態であることはそのとおりですし、なんでもかんでも「政府発表だから信頼しなさい」という話ではありません。でも、「危険or安全」の二分法では切り分けられない事態が目の前にあるんですよね。

*2:武田先生のブログ記事がデタラメばかり書いているものであるよりも、「妥当だ」「有効だ」「役に立つ」と思える記述がいろいろある中に、「それ、違うよね」というものが混ざっていることのほうが弊害は大きいと思います。

*3:文中の「出火」は「出荷」だろうと思います。

*4:これまで何度も県の災害関連情報のページが改定されてきましたので、その時々で検索して調べなくてはならないことがありました。以前は災害情報のページに掲載されていましたが、今日(7月15日)現在は細かいデータは「農産物流通課」のページから入れます。災害情報から入っていこうとするとなかなか見つけることができません。でも、これ「隠ぺい」というのには当たらないと思います。細かい数字のデータを見るのが誰か、ということにもかかわっていると思います。エンドユーザーである消費者よりもまずは生産者や関係団体、流通業の人たちがまず知りたい情報、ということなのではないでしょうか。情報量があまりにも多くて、県も掲載場所を苦慮しているのではないかなと思います…こういう書き方をするから、ときどき同僚や友人から「政府より」とか「行政より」とか言われるのかな…

*5:どうしても納得いかない人には、都内在住だったら東都生協を、そうでなかったら生活クラブ生協への加入をお勧めします。自主検査が充実しているし、何しろ86年のチェルノブイリ原発事故以来のとりくみで、ここ数カ月の「にわか」じゃありませんから。個別宅配もやっているし、情報発信も活発です。でも、私はHPなどを参考にさせてもらっているだけで加入はしていません。近所のお店で買い物もしたいし、スーパーやデパ地下での食料品ウォッチングと買い物も趣味なので。この二つの生協の考え方や取り組みはHPで読むことができます。あとで別記事に書こうかな。

食の安全…我が家の場合

 セシウム汚染の牛肉が市場に出てすでに消費されてしまっていた、というニュース。この事件そのものについては、よくわからない情報が錯綜しているし考えることが多すぎてまだちゃんとは書けない。もうちょっと調べながら様子をみようと思っている。

 ただ、現行のモニタリングだけでは「食の安全」が確保できなかった、ということだけは事実が証明してしまった。もちろん、ゼロリスクはありえないことは前提なのだけれど、「緊急時の暫定基準値」をはるかに超えた牛肉が流通し、消費者が食べるところまで行ってしまったわけだから。失われた「信頼」を取り戻すのは至難の業だろうと思う。もちろんノーリスクというわけにはいかないけれど、それなりに安全に食べることができる食品も含めて売れなくなることで生産者がダメージを受け、廃業していくようになってしまったらその損失ははかりしれない。

 房総出身で関東からでたことがなくて東京・多摩地域に住んでいる私としては、関東産の農水畜産物が特売価格で売っていると、家計としては助かると思いつつ、やっぱり悲しい。この店頭に並ぶ前の段階ですでに値崩れしているのだろうと思うから。デパ地下の八百屋さんで、ほとんど同量の小松菜が、関東産だと1把100円、西日本産だと250円だったりするのを見ると悲しくなる。

 私は、3月中旬以降、福島県や関東地方の自治体のHP、水産庁厚労省のHPなどで公開されている水道水や食品の放射性物質モニタリング数値の表を見るのを日課にしている。モニタリングの数値が「自分基準」で納得いくものだったら、関東産の農産物・海産物をひいきにする。福島県産の農産物も品目を選んで購入する。モニタリングしていない地域のものは大丈夫なのか、とか、輸入野菜の残留農薬は大丈夫なのか、とか、心配ごとはつきないわけだから、同じことなら国産品、それも自分の郷土や親しみのある地域のものを食べようと思うくらいには「愛国的」なのである。
 でも、ちょっとだけビクビクしながら買うわけだし、輸入野菜や西日本産も当然買う。いろいろ混ぜて食べたらいいんだと思っている。以前よりも丁寧に野菜を洗ったり、残念だけど野菜をゆでたあとのゆで汁をスープに使うことをやめたり、煮物のあくを以前より丁寧にとったり、肉や魚の下ごしらえをするときに塩を直接もみこむのではなくて塩水につけたり…一応、もとの食材の栄養を損なわない程度に気休め程度の自己防衛をする。その生活スタイルはこれからも変えないと思う。
野菜をよく洗うのも、疲れているとさぼるし、もっと疲れている日は外食とか中食になる。で、そういうときは「安全性」はあまり気にしない。気にしていられない、というほうが正確かもしれない。ほどほどに、無理なく、でも、しつこく続けていこうと思っている。
こういう適当な「自己防衛」は科学的にはあんまり意味ないかもしれない。でも、自分がはたらきかけることができる何かがある、というのは、私には精神衛生上必要。

 先日は福島県産のサクランボ「サトウニシキ」が3パック500円で売っていて、例年はサトウニシキなんてシーズン中2,3回、それもほんのちょっとだけ食べるだけで我慢しているわけで、喜んで買ってきてつれあいともども堪能した。水を変えて3回洗ったし高校生の娘はちょっと用心して少しだけしか食べなかったけど…
 その後、「山形県産のサトウニシキ」も同じように3パック500円で売っていて、それもおいしくいただいたのだけれど喜んでばかりはいられない。生産者の皆さんはこの難局を乗りこえられるんだろか、ということが気になる。


※書きかけを間違ってupしてしまったので、一部削除の上、夜、帰宅してからあらためて続きとして、武田邦彦先生への苦言を書きます。武田先生の生活情報を参考にしている人がかなりいらっしゃるので、セシウム汚染牛肉がニュースになってからの記事には問題があると思います。

脱原発のデモ(パレード)に参加しました

昨日は、「原発どうする! たまウォーク inくにたち」に参加しました。  この手のデモ*1は、久しぶりです。
 ざっと20年ぶりではないかと。

 とても楽しかった。歩くのは良いよね。
 歩いたあと、一橋大学内の「ティーチイン」も参加した。実は椅子に座ったあとちょっとウトウト・・というかたぶん何分かははっきり寝てたけど。それは夜勤明けということで勘弁してもういたいです。
 主催者発表で、「ティーチイン」参加が300名、ウォークは700名だったそうだ。警察に届けたデモの予定規模は200名だったそうだから、「想定外」に集まったということになる。各地で取り組んでいたので、大規模動員があるわけじゃないから、やっぱり大盛況だったのだと思います。

 のどかで楽しいデモ(パレード)でした。
 子連れも多かったし、車いす参加もお年寄りもいました。
 警察官はそれなりの人数がでていたけど、半袖の夏服にメッシュ素材のベスト、帽子という軽装で、なごやかな感じで、パレードの交通整理をしてました。
 ベストには大きく警視庁、と書いてあって。これなかなか形がかっこよくて涼しそうでこれからの季節の被災地支援の制服には良さそうだな、なんて思って見てました。被災地でメッシュのベスト型ゼッケンを制服にしている支援チームはたくさんあるのだけどあれよりデザインがかっこいいです。
 プラカードは、事前のワークショップでつくったものもいろいろあったらしいです。動物柄がたくさんありました。「怖いゾウ」とか「キリンがない放射能」とか。「ぽぽぽぽーん 原発さよなライオン」というのもいた。かわいかった。 ひまわりの花っぽくデコレイトした帽子の人もけっこう見た。タイペックス風のつなぎの人(これはきっと暑かったと思う)もいた。ひまわりや風船持っている人もいました。ひまわりは放射性物質を集める植物ということで311以降、土壌汚染対策の文脈でけっこう話題になってましたね。*2

 雑多な外見の、いわゆる市民運動ノリのデモ。
 86年のチェルノブイリ原発事故の後のデモもこんな感じだった。ちょっとデジャぶる。年齢層は私らの同世代がけっこう多かったかもしれない。学生時代にチェルノブイリがあって、今は子育て世代になっているような層。もちろん、もっと若い人たちもたくさんいた。25年たって、今、日本がまさに深刻な放射能汚染の現場になっちゃったんだなというのは本当にくやしい。
 この手の「デモ」に参加したのは、たぶん・・・20年ぶりくらいじゃないだろうか。

 つれあいはデモ出発の時間には間に合わず、まぁルートは短いし良く知っている街並みだから、わかりやすい場所にいれば合流できるはず、と思って、リコーダーとトランペットとギターの鳴り物グループの前に入り込んだ。道々メールで場所を知らせた。デモ隊が駅前を通りかかるころに電話がかかってきたので、「手のひらを太陽に」とかそういう曲を鳴らしているとても中央線的な集団の前にいるからそのうち見ていればわかるよ、と連絡したら間もなく合流。説明はわかりやすかったらしい。中央線3寺文化っぽいというか、おなじみの感じの集団だったので。濃いんですよ。きっとたどっていくと共通の知り合いがいるだろうなという感じで。

 ティーチインの第二部終了時、休憩前に主催者の一人からあいさつがあった。
 ウォークに参加した人のそれぞれにその体験がどうであったかを時間があったら聞いてみたかった。歩いているという実際の身体の動きの中で、何か身体が変わっていく感じ、身体を動かしながら発信していくという体験のなかでの身体の再構成が起こっていく感じがあったのではないか、というような趣旨の発言で・・・*3
 ああ、なんかとてもなじみ深い表現だなぁと思ったりして聞いていたのだけど、え、そういえば、この名前と声、そして、この立ち姿、もしかして・・・と思って、休憩時間にあいさつにいったら、やっぱり昔の知人だった。20年ちょっとぶりの再会だった。あまり話もできなかったけど、連絡先やここのブログもお知らせしておいたので、ちょっと記事をUPしてみた次第。

 デモや集会の参加をしたところで、自己満足とかオバサンの感傷では現状を変えるわけじゃないけど、人と人のつながりを作りながら、今の今、それこそ「放射能汚染」されてしまった今の私たちの住む環境の中で、*4やっぱり「せめて」子どもたちをどう守っていくのか、そのために何ができるのか、「科学的に有効な」方法で「できることはなんでも」やっていかなくちゃな、とそんなことを改めて考えていました。*5
 

追記:
6月12日22時45分

はてなの中に、私が参加した「たまウォーク」の公式ブログがあって、そちらが当日のレポートを掲載していたので、リンク(&こちらからのトラックバック) をはっておきます。
6・11「原発どうする!たまウォークin国立」レポート:700名の参加! - 「原発どうする!たまウォーク」ブログ 
Youtubeの動画も紹介されてました。

*1:・・・という表現をしていいのかな、主催者側の表現は「パレード」なんだよね。まあ、「デモ」として警察に届けているから「デモ」でいいんでしょう。

*2:でも、セシウムを集めたひまわりをたとえば焼却しても放射性物質の量は減らないわけで、かえって燃やしてしまうと拡散してしまうから、土をきれいにしてくれたひまわりはどっかにまとめて埋めるようになるのかしら。

*3:発言の要約は半分眠っていたような状態の頭の私の記憶の中から再構成したものなので、このとおりの表現ではないです。

*4:実際のところ、事故以前の状態に比べたら、多摩地域だって十分に「深刻に汚染」されている。福島市郡山市はもちろん、その他ホットスポットになっている場所には、たくさんの人が住んでいるし子どもたちもたくさんいる。

*5:「科学的に有効な」が大事。放射性物質そのものは煮ても焼いても減らないから、やっぱりなるたけ「拡散」しない形にまとめて、どこかに埋めるなりの方法で保管するしかない。で、それを「どこ」にするかというのが大問題になる。誰だって自分の活動範囲、とくに住まいの近くは嫌なのが当然、でも「どこか」は絶対に必要となるという厳しい状況だから。当然、保管した場所だってそこからでてくる「放射線」を可能な限り減らすための手段を講じないといけないし。

大野さん、すいません。「主語の取り違え」してました

「5×3≠3×5問題」についてはまだまだお勉強中のよたよたあひるです。
今回のエントリはちょっとかけ算を離れてセクシュアリティ話。
もともと、はてなのブログはフェミぽいことを中心に書きたいなと思って始めたのでしたが・・・(なぜ「かけ算」にはまってしまったのか)
 
で、本題です。

大野左紀子さんからトラックバックをいただきました。
<男×女>という思い込み - ohnosakiko’s blog

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110128-00000608-reu-int
↑の記事の大野さんのブコメに私が質問をしたことへの解答です。
大野さんの記事中にあるように、私の読み違えでした。

まず、「(気にしろや」を「自分つっこみ」と捉えたということは、その前の文の主語を取り違えていたのではないか。つまり、
>夫も私が目の前で女性と戯れたりキスしたりしてもあまり気にしてなかった
ではなく、

>私も夫が目の前で女性と戯れたりキスしたりしてもあまり気にしてなかった
と読み違えたのでは。

は正解です。
誤読による質問でお手をわずらわせて申し訳ありませんでした。

 
でも、

なぜyotayotaahiruさんはこんな簡単な文章を読み間違えたのだろうか?と考えた。
それは、「夫が(妻の)目の前で女性と戯れたりキスしたり」することはまあ手癖の悪い夫ならありそうだが、「私(妻)が(夫の)目の前で女性と戯れたりキスしたり」することはまずないだろう、という先入観があったからではないか? 

これは微妙に違います。前半の
>「夫が(妻の)目の前で女性と戯れたりキスしたり」することはまあ手癖の悪い夫ならありそうだが
がなんだか私の感覚とちょっと違うんですよね。後半の
>「私(妻)が(夫の)目の前で女性と戯れたりキスしたり」することはまずないだろう、という先入観があった
 の方は、「結婚」しているの(←ここでは大野さん)はヘテロセクシュアルな女性であり、それを(「事実婚」とはいえ、一応特定のパートナーと家庭を維持している私自身に置き換えてみると、「まずないだろう」という先入観があったことは確実、しかもブコメを書いているときには自覚がなかったですね・・・自覚的にはヘテロセクシュアリティである女性であっても、ふと同性に(「淡い」「濃い」はともかく)セクシュアルな欲望を抱くこともしばし考えてみれば、そりゃありそうなことだ思い至りますし、だいたい、自覚的にバイセクシュアルである女性が男性と一定のパートナーシップを持つことも確かにありますから、そこまで考えることもなく「主語の取り違え」で誤読していたのは、私自身の中に同性愛に対して強固な否認がある、自分とは関係ない話だと思っているということになります。ご指摘ありがとうございます。気がついてよかった。

 
 さて、ここから先は言い訳ですが、前半の
>「夫が(妻の)目の前で女性と戯れたりキスしたり」することはまあ手癖の悪い夫ならありそうだが 
が、私の思っていたことと違うということについてちょっと書いてみようと思います。

 「夫が(妻の)目の前で女性と戯れたりキスしたり」することは「ありそう」とは、ぱっと見て誤読するくらい思っているわけですが、その「夫」が「手癖の悪い」夫とは限りません。特定の性的パートナーを持ちつつ排他的な性的関係をお互いに強制せず、したがって、男性(夫)、女性(妻)ともに目の前で他の異性といちゃいちゃしていても「気にしない」という関係はありえます。
 まぁ一般社会の評価からしたらこの場合は男女ともに「手癖が悪い」のかもしれませんし、法律婚の関係があればなおさら「常識はずれ」になりそうですが、現行憲法下では、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」わけで、パートナー以外の人物*1と性的関係を持つことも「同等の権利」として「合意」していれば問題はないでしょう。
 性的関係という身体的にも精神的にも非常にプライベートな関係性の中に、「同等の権利」という言葉が入ってくるのに違和感があれば「お互い様」でもいいんですが、私は、特定の(安心できる親密な)関係性は持っていたいけれど、それが「所有関係である」のは嫌、束縛しあうという形で「所有しあう」のは嫌、性的行動の自己決定はあくまでもそれぞれの個人のうちにある、という立場に自分をおいておきたいです。
 
 ただし、「特定のパートナー以外の性的関係を持つ相手」もまた同じような価値観を持っていないと泥沼になりそうだし、妊娠と性感染症は「子育て」とか「介護」とかを共有しているカップルにとっては生活と関係性維持の危機をまねくことになりますから、パートナー以外の性的関係を持つ相手を選ぶのも、行為に及ぶのも欲望のおもむくままというわけにはいきませんし、実際に子育てに入ってからは、パートナー以外との性関係を欲したことがありませんけれどね。*2
そして、「素で気にしない」はなかなか難しそうだとは思いますから、パートナーの「目の前で」は、私でも避けるだろうと思います。

 私はこのような考え方をしているので、大野さんのブコメの主語を取り違えて誤読したあとは、自分の妄想構築のなかで、双方合意の上でパートナー以外の異性とキスや性的なニュアンスを含む身体接触を「お互いに」気にしない関係性をつくってこられたのかなと勘違いしてidコールまでしての質問になってしまったというわけです。
 勝手読みほんとうに失礼しました。

 もと記事については、翻訳の問題もありますし、だいたいもとになっているテキサス大学オースティン校の研究チームが、どのような目的でどんな質問項目で行った調査なのか、それをロイターがどんな切り取り方をしたのかがわかりません。
 調査した側の目的、「浮気」という言葉で何を意味しているのか、対象となった718人の大学生は全員が「交際中」の男女なのか、「交際期間」はどれくらいを「長い」としているのか、意識調査として実施したらしいこの調査と、実際の「浮気経験」についての調査結果の「別れる」と答えた男女それぞれの割合と、「想定した同性との浮気」との回答との間にどんな関係があるのかなど、もっと詳しい話を知りたいところです。
 もと記事中に書かれている研究チームの出した結論、「嫉妬の本能に基づいた反応」「男性の場合は男性のライバルが現れると子孫を残す機会を奪われるかもしれないという危機感を持つ」は、ホントカイナ、と思うところ多々あり、
 大野さんのエントリ中の、

ヘテロの男にとって恋敵、ライバルは他の男だけで、女はそこに登録されていないのです。女が本気で好きになるのは男だけ、女同士の恋愛なんて男女の恋愛に比べたら大したことない、ちんちん持ってる男の自分が持ってない女に負けるわけない、と思い込んでいるからです。だから「恋人である女性の同性愛については「同時に複数の女性と性的関係を持つチャンス」と考える」。甘いな。

はほぼ同感です。ただ、このもと記事からだけだと根拠がちょっと弱いですけど。
>恋人である女性の同性愛については「同時に複数の女性と性的関係を持つチャンス」と考える
というのは、私が「お互い様」と書いた関係性の持ち方を、許容を「女性の同性愛」の場合に限って適用し、しかも自分が排他的ではない性関係を持つ対象として「複数の女子」を想定するというとても都合のよい考え方ですから。
  

 ところで、追記を読んで思ったのですが、 
 酔っていて箍がはずれた状態での性的放縦、逸脱行為に見える行動に関しては、しらふのときの行為に対してと見方は変わりそうですね。パートナーの目の前で異性相手にキスまでするとアレレと思うのがおそらく普通でしょうけど、ハグやダンスだと異性同士でも飲み会の席ではままありますし、ほっぺたにキスも座興のうちだったり。私も自分への身体接触の度合いの許容は男女ともに広くなりがちです。嫌だったら上司でもひっぱたきますけど。

*1:私が想定していたのは異性ですが、広く考えれば同性でも可ではあります。そこまで思い至っていなかった自分が残念ですが

*2:これはまたもうちょっと別の軸もあります。乳幼児の子育てそのものが母乳育児や入浴やら添い寝やら濃密な身体的な関係性であり、性関係よりも面白いもの、満足できるものだと私には感じられていた、という・・・「母性」というセクシュアリティもありよね、と思ったことがあります。ただ、これを深く考えていくとかなり怖いところにいきそうなのですが

「かけ算」の「形式的な理解」ってなんだろう。

 しつこいですが、マイ・ブームの 「5×3≠3×5問題」、
「5×3≠3×5」問題について思ったこと - よたよたあひる’S 「はてな」日記

さらが 5まい あります。
1さらに りんごが 3こずつ  のって います。
りんごは ぜんぶで 何こ あるでしょう。

「5×3≠3×5問題」論争!我が家の場合(笑) - よたよたあひる’S 「はてな」日記

連れ合い:「3の5倍」と「5倍にした3」と、どちらの順序で書いても掛け算の意味は変わらない(でも「3個セットが5個」と「5個セットが3個」というのは意味が違う。文章をそのまま素直に読めば「一皿に3個ずつ」で「3個セットが5個」と書いてあるのは明らか)。」
:「問題文を読んでそのまま図をイメージする(自分にとってわかりやすい整理の方法で図にする)と、出てきた数字順に絵が完成する。その絵をもとに立式するから5×3になるのは(自分にとって)自然。」

という家庭内論争を経て、
(※↑類は友を呼ぶ、よたよたあひるの「連れ合い」のオツムはやっぱりよたよたしてたよwww - 消毒しましょ!という消毒をいただき、さらに話し合った結果、もともとの家庭内論争のエントリに書いた台詞を若干修正してあります。)

:「そうか、『1さらに』『3こずつ』を一つのカタマリとして認識せよ、という意味が問題文に書かれているからそれを読み取れ、という問題なんだ…私には文章題の読解に難あり、ということだ。『ずつ』は一応認識されているのだけど、それを使って問題を解くということにならない。棚上げしてしまうんだよね。でもさ、『ずつ』をキーワードとして読み取ることができたらそれでいいのかな。掛け算そのものの理解、ということからいったら何か違うと思うんだけど。」
連れ合い:「あひるの読解は迂遠だし、もっと近道で立式できるだけの情報が問題文に書いてあるのだけれど了解可能な理路ではある。問題文そのものの条件には、あひるが認識する道筋は書かれていない。けれども、あひるの読解を排除するだけの理由も書かれてはいない。近道があっても迂遠な回路を通ってしまうというのは自分には謎だけど、そういう思考回路を持った人がいる、ということだね。」
:「全体からみるとたぶん小数派なんだろうけど、ネットの意見を見ていると同じような人(でもってもっと数学的な人)はそれなりの数いると思う。文章題の文意は把握しているけど、その文意を立式と計算にはじかにつなげていないの。」
連れ合い:「いや多い少ないという問題じゃなくて、そういう迂遠な思考回路をとるひとがいる、というだけでいいんだよ。「教える側」は対応しなくちゃならないってことだから。」

というところまできました。
 こうやって並べると相変わらず会話はあまりかみ合っていません。でも、私のほうは、自分の「文章題の読解」のねじれを認識することができましたし、一応、連れ合いは私が何にこだわっているかを理解してくれたようです。

さて、この先の展開としては、
A.あひる脳による読解の理由の分析
 ・・・あるいは、あひる的認識の問題点
B.あひる脳的子どもは「掛け算」をわかっているか?
C.あひる脳的子どもにはどんな「指導」が必要か?
 ・・・あるいは有効か?
D.そもそも「掛け算の概念」「掛け算の意味」て何?
E.ひっかけ問題は「掛け算の理解」を評価するのに適切な問題か?
F.小学校2年生の掛け算の導入時に順序を徹底する指導はどこまで有効か?

というところですね。

昭和26年の学習指導要領
http://www.nicer.go.jp/guideline/old/s26em/chap4-1.htm
にある、

こどもが,このような誤った解決をするのは,かけ算の意味をひととおり理解しているにしても,その理解が形式的になっていることを示しているといえる。
 問題が,どんな形式でだされようとも また,いくつかの条件がどんな順序で書いてあろうとも,かけ算を式で示すとすれば,
(グループの大きさ)×(グループの個数)=(量全体の大きさ)
であることが,こどもにじゅうぶん理解されておらなければならない。

 では、「かけ算」を式にあらわす意味は順序で示される、ということが書かれています。この文章中の「理解が形式的になっている」というのはどういう意味があるのでしょう。
 同じ学習指導要領(試案)の「評価」の部分に書かれている文章を見ると、

 どんな九々をつかうかという問に対して,3×2=6と答えたものが予想以上に多いことがわかった。これによってこどもは問題に出てくる数を,その数の意味を深く考えもしないで,出てくる順に書き並べ,その間にかけ算記号を書き入れることがわかった。問題に出てくる数を頭の中にいったん収めて,演算の決定に導くように問題の場を組織だてる力が欠けているらしいことがわかった。

 単純に暗唱した九々に、問題文に出てきた数字をあてはめて「掛け算」にしているだけ(答えは偶然あっているだけ)というのと、あひる的立式はちょっと違います。 一応、文章は咀嚼していて、「問題に出てくる数を頭の中にいったん収めて、演算の決定に導くように問題の場を組織だて」はしている。何を求めるのか、その求める数を決定するためには何と何を使えばよいのか、ということを取り出して考えて立式をしています。でも、その文章に沿って立式をする、というところがすっぽぬけているんですよね。私の場合すっぽぬけているのは、「数字を問題文にでてきた順序で処理している」というところに原因がありそうです。文章に処理できない何があると、逆順に書かれている問題でもひっかからないものがあったんですよね。
http://benesse.jp/blog/20071120/p37.html
進研ゼミの保護者の質問コーナーへの回答にでてきた問題なんですが、

リボンを7本作ります。
1本を8cmにすると、リボンは全部で何cmいるでしょう。

私の場合は、この問題だと、
(1)長い1本のリボンが頭の中にボン、と出てくる。
(2)そこから7本の短く切ったリボン(1本が8cm)を作る。
(3)リボンは端から8cm「ずつ」切らないと作れない。
という手順になるので、脳内図と問題はずれないようです。「おお、これはまさに累加だなぁ」と関心してしまいました。

 でも、引用したサイトの質問者のお子さんは、この問題でも逆順に立式をしている。どうも私とは頭の動かし方が違うお子さんのようです。でも、じゃあ、このお子さんが「単純に出てきた数字を掛け算に当てはめているだけか」というとそうとは言い切れない。
(長さのわからない短いリボンが7本)×(1本の長さは8cm)という立式になっている可能性もあります。(1cmの)リボン7本がそれぞれ長さ8倍になる、という解釈は成り立ちますから。

 問題文にある数字の書かれた順番には縛られているけれども、「かけ算」という道具を使って考えるときに、必要な構造化はしている。
 必要な「指導」は「掛け算の意味」の理解であるならば○にして良いのだと思います。でも、「問題文を素直に読むとこういう立式になる」という視点や「問題文にでてきた数字順に処理できない問題はある」ということはわかっていたほうがいい、というだけでなく、わかっていないと困る状況はでてきますよね。
 だから、指導は必要なんですが、その指導は「ずつ」を目印にしなさい、ということとも言い切れない。「ずつ」がでてこない問題は作れるし(PISAの問題はその手の問題がけっこうあります。全国共通学力テストのB問題もそういう志向があると思いますし、テストの解法ということだけで言っても、全国共通学力テストやPISAは公立高校やセンター試験などに反映してくるでしょう)、なによりも実際の生活場面では生の数値だけがボンとでていることはいくらでもあります。

 必要なのは個別の子どもの「読解」や「理解」がどうなっているのか、ということを指導者が「理解」して、その子どもの「読解」「理解」が一般的でない場合には「矯正」するというのではなくて、「その子が気がつけないでいる視点」や「より一般的な読解がどういうものなのか」を「追加」してあげることじゃないかと考えています。
 今の学校の先生にそこまで求めることは酷なことだろうなぁとも思うわけですが。教科書そのものが「矯正」の方向に動いているのじゃないかということも気になります。
↓これなんかはやめてほしい。
http://ameblo.jp/metameta7/entry-10742669809.html
教科書の中に図を描かせる場面が組み込まれていて、その図の描き方が誘導的なんです。これは辛い!